キョン視点・古泉宅


 古泉がこちらですとベテラン添乗員のごとく片手を上げて示した先には、古びてはいないが新築でもなさそうな五階建てのマンションが建っていた。アパートといった方がいいかもしれないが、とにかくそんな感じの集合住宅だ。
 並んでエントランスに歩きながら、ここなら自転車で割と近く、徒歩でも自宅から行き来できるなとぼんやり考えており、行き来することなどあるのだろうかというところまで思考が行き着いた。古泉のネガティブ思考がうつったんじゃあるまいな。
 古泉はエレベーターをスルーして狭い階段をのぼりだしたので、当然俺もついていく。
「二階なんです」
 ここに来て古泉の口数はめっきり減っており、そう言ったっきり背中を俺に見せている。そうかと返した俺の口数も人のことは言えない。
恐らく数十分前に逆方向に歩いたばかりだろう廊下を通り、階段から一番遠い角部屋のドアの前で古泉は立ち止まった。表札はない。
 ポケットから取り出した鍵が、目測を誤って鍵穴から逃げたのを俺は見なかったフリをした。二度目のチャレンジで問題なく鍵は開き、外開きのドアを開けたこいつはどうぞ、と俺を促した。しかしその顔にはいつもの如才ない笑みは浮かんでおらず、笑い損ねた顔に焦燥感が混じっているようなそんな顔をしていた。
 十中八九、『機関』とやらが用意しただろう部屋は、実に普通というか、中庸的な部屋だった。規模も、家具も、また散らかり具合も、高校生の域を多少しか出ていなかった。広さとしては長門の部屋といつぞやお邪魔したお隣の部長氏の部屋の中間ぐらいだ。
玄関があって短い廊下があり、当然壁と天井と床で構成されており、正面にリビングかダイニングへと続くだろうドアがある。一人暮らしをするには広いくらいだろうか。
 家主よりも先にずかずかと上がりこむ気になれなかった俺が靴のまま待っていると、鍵をかけた古泉は先に立って歩き出した。
途中にあるドアは恐らくトイレ・風呂関係だろうな。古泉が開けたドアの先にはカーペットの敷かれた洋室が待っており、まあまあ座り心地の良さそうなソファと低いテーブル、テレビにパソコンデスクが置いてある。マガジンラックなどというものは存在せず、部屋の隅に慌てて積み重ねたような雑誌や紙束類を見つけたときは妙に安心したものだ。
微妙に狭く見えるのは家具が多いせいだろうかと思ったが、天井が割合低いからだと見当をつけた。







古泉視点・突入前


 一昨日から掃除を始めて、久しぶりに引っ張り出した掃除機を五回はかけた。収納しきれなかったものはクローゼットにまとめて突っ込んであるので、開けたら軽い雪崩くらいは起きるだろうか。
北高に転校してきたときに『機関』から用意された部屋は、一人で暮らすには少々広い。そこのところを訊かれたら「親の都合で本当は家族で住むはずだった部屋に一人で住んでいます……という設定です」と返すと決めていたのだが、質問はされなかった。彼の方も多少なりとも緊張しているのかもしれない。
 実際質問されたら即答できたかどうかは怪しいが。最近の僕は彼の前では『機関』の一員であることをしばしば忘れる傾向にある。実に良くない兆候だが、それはそれで公私の区別がついているということにして自分をごまかしている。
そもそも今回のこれは『機関』とも世界とも関係なく、ただ僕たちだけの秘密になるはずだ。
 彼のご所望のコーラを注ぎ、ペットボトルと一緒に盆に載せる。無駄に充実した食器類が初めて役に立っている気がした。
そのままリビングに戻ると、彼はぼうっとしていた。僕が視界に入ってきたのに驚いたように、おう、と片手を上げる。
「お待たせしました」
「いや、別に」
 妙な雰囲気だった。未だかつて彼とこんな沈黙を共有したことはない。
ちびちびと数口飲んだコーラを彼は盆ではなくテーブルに直接置いた。
「あの」
 どうにかしなければ頭がおかしくなりそうだった。声をかけると彼は素直に顔を上げ、僕はその唇にキスをした。
 あまりにも唐突な行動に彼は瞬間体を硬直させたが、諦めたように、あるいは受け入れたように目を閉じた。こちらも礼儀として目を閉じるべきかと思ったが、もったいなくて閉じるタイミングを逃した。
目を閉じて眉間にシワがなければ、彼の顔は未だ幼さを少し残している。愛しいという言葉にイメージ映像をつけたら、こんな感じになるのだろう。
ゆるりと舌を動かして、彼の中に侵入する。絡みつく温度が興奮を加速させた。途端に眉根が寄る反応を見ながら、肩を押さえつけるように手を置いた。


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