探し物はなんですか
彼が消えた。
正確に言うなら、某月某日、実に上手く回っていたと僕たち誰もが思っていた世界が、唐突に終わりを告げたのだ。そう、あの五月のように。そして今度ばかりは、世界は戻りはしなかった。
それも正確に言うなら、世界は二つ出来たのだ。
神が存在する世界と、しない世界。
彼が存在する世界と、しない世界。
神にも似た願望の中心だった少女は、彼をアダムとして選んで新しくつくった世界に共にいってしまった。
僕たちだけを、置き去りにして。
改変は突然にして迅速であり、今度は未来からの忠告も宇宙からの指令もなく、超能力の応じる範囲ではなかった。瞬きするほどの一瞬の時間に、いっそ美しいほど見事に彼と彼女は消えた。そしてそれと時を同じくして、情報統合思念体もあるべきはずだった未来も『機関』も消え失せた。おそらく、彼女が新しくつくった世界に移動したのだろう。
僕たちだけが残された。
そう、彼女によって望まれたSOS団の残り三名は、自らの記憶と能力をそのままに捨て置かれたのだ。
それが彼女の同情だったのか、あるいは罰だったのかは解らない。
だけれど涼宮ハルヒ、それがあなたの敗因だ。
その新たな世界とこの世界の改変を知って、朝比奈さんは泣いた。長門さんはただ沈黙し、僕はといえば笑顔を作る余裕などとっくに消失していた。
彼女が新しい世界に逃避した理由は解りきっていた。
僕のせいだ。いや、僕と彼のせいだった。
僕は彼が好きで、彼も多分僕が好きで、僕たちは性別を除けば普通の高校生のように付き合っていた。問題を先送りにして、少しばかりただれてはいたが、そんな日々が幸せだった。
それが彼女にばれて、彼は大丈夫だと言った。
僕もそれを信じるしかなかった。確かに涼宮ハルヒは日に日に成長し、自分の感情と願望をコントロールするようになっていたからだ。穏やかな一月だった。前兆はなかった。長門さんですら気が付かなかったのに、それは密かに進行していたのだ。
ある日突然世界は終わり、僕たちの知らないところで始まった。
だからといってこちらの世界に大きな混乱があったわけではない。彼と彼女は初めからいなかったということになり、その記憶を有していたのは僕らだけだ。僕たちは文芸部員ということになっていた。
だが、今日長門さんからの招集を受けて僕と朝比奈さんは文芸部室(現在は名実共にだ)に赴き、そこで愕然とした。
外見こそそんなことはなかった。手書きの『SOS団』の紙は貼られておらず、プレートは文芸部だった。
しかし、その中はまるきり世界が変わる前と同じだった。並んだ長机にパイプ椅子、背表紙が分厚い本がこれでもかと並んだ本棚、その端にこっそりと存在する皆で作った文芸部誌、朝比奈さんのコスプレ衣装、ポットにガスコンロに冷蔵庫に扇風機にストーブ、そして僕が持ち込んだボードゲームに、……彼が持ってきたのだというオセロ。
誰もいなければ膝をついて呆然としたいところだったが、目の前には本を持っていない長門さんがまっすぐに立っており、斜め後方には口を押さえて目を丸くする朝比奈さんがいた。この状況で僕だけがくずおれるわけにはいかない。
「この空間だけ保存されたのが誰の仕業かは不明」
長門さんが口を開く。朝比奈さんはふらりと僕を追い越して自分の指定席へ向かい、言葉にならない声をもらしながら腰を下ろした。僕は今さらのように閉まったドアの音を聞きながら、棒のように突っ立っていた。
改変の原因になった僕を、彼女たちは一度も責めなかった。
「わたしはあなたたちに確認する」
長門さんはまっすぐな目をしていた。そして、彼でなくとも解るほどに――その目には怒りが漲っていた。だがそれはあるいは、怒りと憤りに見せかけた悲しみと寂しさだったのかもしれない。
「何をでしょう……」
朝比奈さんが呟く。声にも力が入らない様子だ。当然だろう、彼女は帰るべき故郷を失ったのだ。
「彼を取り戻す意思があるかを」
その声は一度鼓膜を突き抜けて脳髄に染み渡ってから、跳ね返るように出ていった。
彼を。
「……可能なのですか」
「可能」
僕の質問に、彼女は間髪入れずに答えた。
「わたしの情報処理能力に最早枷は嵌められていない。枷を嵌めた彼がいないのだから、許可を得る必要もない。情報統合思念体とのコンタクトは不可能だが、わたし単体の能力で可能なレベル。経験がそれを可能にした」
すらすらすらと、他人が聞いたら無感情にしか聞こえないだろう声色で長門さんは述べた。だが僕には解るし、朝比奈さんにも解っただろう。それならばもちろん、彼にも解らないはずはない。決意に裏付けされた自信がもたらす強さが、その声には混じっていた。情報統合思念体が無くなった今、長門さんは対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイスではなく、長門有希個体の圧倒的な自我を持ったというのか。
「わたしという個体はそれを望んでいる」
そこで僕たちの反応を見るかのように口を閉ざした。燃える氷があったらこんな色をしているのだという目をしていた。
「僕は彼を望みます」
僕の答えは一つしかなかった。それ以外に何があっただろう?
「僕の責任によって世界が改変されたことに関しては、僕はあなた方にいくら謝っても謝り足りないでしょう。それでも僕はこの期に及んで尚彼を諦めきれないでいる。この僕に出来ることならなんでもします。長門さん、あなたに託してもよろしいですか」
聞いて、長門さんはこくりと頷いた。
制服姿の朝比奈さんは疲れ切った表情を少し変える。
「あたしも……あたしも、望みます」
彼女の目にも鮮やかな決意の色が浮かび上がっていた。
「あたしの知っている未来はもうありません。未来から誰かが来ることはもうない……と思います。なら、もう規定事項も禁則事項もないはずです。あたしは、もう一度あの人に会いたい」
「朝比奈さん」
呼びかけると、僕の顔を見た。その顔に一片も僕を否定するような要素が見つからず、何故だか僕は跪いて懺悔したくなった。彼が女神だと称する理由だろうか。
「僕はあなたの帰る場所を奪ってしまったのですね」
すると驚くべきことに、朝比奈さんは首を横に振った。幼げな仕草で、表情だけが大人びていた。ついぞ見たことのない顔だった。
「タイムプレーンデストロイドデバイスは、あります。今も通常に作動するでしょう。だから、あたしは自分の未来に帰ることはできるんです。ただし、片道だけ」
耳慣れない言葉だったが、禁則事項がないから喋れたのだろう。彼なら聞いたことがあったかもしれない。だが彼は実際秘密主義なところがあり、彼女たちの秘密に触れそうなことは本人の許可がない限り僕には漏らさなかった。正しい人だ。
「きっと未来に戻ったら……もうこの時代には来れません。でもそれじゃ困るんです」
成長した朝比奈さん。彼と行った時間遡行。長門さんの助力。世界を元に、あるべき姿に動かしたのは他でもない未来人と一般人の仕業だったはずだ。
「あたしにはきっと、やるべきことがある。キョンくんがそれを知っているはず」
キョン、と耳に響いた言葉が奇妙に懐かしかった。ああ一度で良い、嫌がらせのようにでもいいから僕も呼んでみればよかったのだ。多少間抜けな響きを内包した、だが親しみに溢れたその愛称を。その代わりに僕は、誰も呼ばない彼の本名を時折口にしたのだけれど。
「そうしなければ、今こうしてキョンくんを呼び戻せないでしょう?」
朝比奈さんはわらった。非常に下手くそな笑顔で、でもそれは彼なら120点をつけただろう。ごめんなさいと、僕は謝った。
彼女はこの時代で、知る人など北高周辺にしかいない世界で生きていかなければいけない。本来なら未来で過ごすはずだった時間を、彼女からしてみれば原始的に過ぎる世界で。ごめんなさい、でも僕は彼のために、未来へ帰ってくださいとあなたに言えないのです。
「でもできることなら、」
だがそこで朝比奈さんは言葉を切った。
言いたいことはなんとなく解るような気がした。長門さんは彼を取り戻すとしか言わなかった。涼宮ハルヒを、我らが団長をこちらに呼び戻すことはできないのだろう。できるのならば、長門さんはそう言っているはずだ。彼女は自らが選んでつくった世界に存在しなければならない。その世界は恐らく、彼女がいなければ存続できないものだろうからだ。
彼か彼女か、どちらかしか選べない。
僕は不思議と彼女を恨んではいなかった。無意識は罪深く、無垢だ。彼女のせいではない。
だが、涼宮ハルヒに彼をすんなり譲渡できるほど、僕は人間ができてはいなかった。
話は決まったと、長門さんはまた頷いた。僕も朝比奈さんも頷く。
「わたしはこちらから彼の夢へと連結する空間を設置し、そこで彼にこちらとの接点を増やさせる。その上で『鍵』となるキーワードを彼自身の口から発せさせることができれば、彼はこちらに戻ってくる」
「なるほど、鍵とは?」
『鍵』といえば思い出すのは彼の不機嫌そうな横顔だが、彼自身の名前ではないだろう。
長門さんは予備動作無く腕を持ち上げ、僕を指さした。
「あなた」
「……は?」
予想外だ。
「正確には古泉一樹、あなたの名前を鍵として設置する」
「具体的にお願いします」
「あなたは夢に酷似した空間の中で彼と会話し、彼の興味を引き、そして彼にあなたの名前を思い出させ、呼ばれなければならない」
一樹、と、と長門さんは言った。いつき。幾度も呼ばれたことのない僕の名前だ。
「僕からその名を告げることは」
「許されない。その瞬間全ては終わる」
解っていてした質問だった。
「機会は一度しか与えられない」
いつもそうだった。でも確かに僕がこぼしたチャンスを、彼は確実に拾い上げた。
「名字ではいけませんか、古泉、では」
そちらの方が可能性が高いように思えた。彼は実際古泉、と僕のことをよく呼んだ。もしかしたら、いや自惚れでも良いならSOS団の中で一番呼んでいたはずだ。古泉、こいずみ、と。
「それでは吸着率が足りなくなる。彼との会話は多すぎても少なすぎてもいけない」
実に難儀な命題のようだった。
それに、と長門さんは付け加える。
「あなたの名字を彼はすぐに思い出すと予測される」
ああ、と朝比奈さんが頷いた。あたしも、
「あたしも、そう思います」
何かに満たされる予感がして、胸を押さえた。僕は、僕たちは彼女たちに許されているのだと、今解った。滑稽だった。こんなことになるしか彼女たちの思いを理解できなかった、僕が最も滑稽だ。
「わたしは現実世界でのフォローを行うため、あなたの役割はできない。あなたが適任」
「うん、あたしには難しくってとっても無理そうです、ごめんなさい」
ぺこりと朝比奈さんが頭を下げた。そんなことはしなくていいんですよ。
「やりましょう。彼と会話することは、僕にとって一番得意な分野でもあります」
そして僕は自然に笑っていた。彼が消えてから、笑うのは初めてだった。それはきっと普段のそつない笑顔ではなく不格好なものだったとは思うが、長門さんも朝比奈さんも何も言わなかった。
「こちらのことは全て、」
長門さんが言いかけて止めるというのは珍しいことだった。中断したまま視線を五ミリほど朝比奈さんに移動させ、
「わたしたちに任せてほしい」
朝比奈さんが慌てて何度も頷く。彼女たちはこんなにも成長したのだと、彼が見たら目頭を押さえそうな光景だった。願わくば、彼女も共にあれたなら。
「た、たいしたことはできませんがっ、お任せくださいっ」
「注意事項を伝える」
今や未来人の彼女は宇宙人の彼女に怯えることも少なくなり、宇宙人の彼女は未来人の彼女を眩しい女性として見ることを止めていた。
僕たちは仲間で、同志だ。
「あなたの体は彼と共に戻ってくるまで眠り続けることになる。だが意識はそのまま、夢に酷似した空間に居続けなければならない。あなたが正気でいられる保証はない」
最後の言葉だけ、長門さんは少しだけ言いにくそうだった。朝比奈さんがえっ、えっ、と慌てている。
「生憎、僕は彼がいなくなってからずっと正気ではありませんのでね」
それくらいの代償は払うべきだ。まず間違いなく、最も重労働なのは長門有希その人だからだ。
「でも、お二人に先駆けて彼と直接対面するという役目をいただいたのですから、意地でも正気とやらを保ってみせます。ご安心下さい」
「なら、いい」
「が、がんばってください」
場所は僕の部屋で。彼と僕が目覚めたときに不自然でない打ち合わせを三人で終わらせ、部室を後にした。目覚めた瞬間に長門さんが世界を改変してくれるとのことで、現実世界のことは心配はない。
朝比奈さんはカップケーキとかクッキーとか、ええとサンドイッチとかたくさん作っておきますね! と彼女が出来る限りのことを並べ立て、僕はいちいちそれに頷いた。長門さんは僕にベッドに横たわるように指示し、僕は言われるまま服を脱いで横になった。おやすみなさいと彼女から一度も聞いたことがない言葉を賜り、僕はそのまま深い深い眠りへと落ちていった。
目を開ける。
真白ではない、うっすらとクリーム色の空間に僕は一人で立っていた。
疲れもしないのだろうが、このまま立っているのもなと思うと、背後に椅子のような感覚が現れる。確認してみても何もなかったが、試しに腰掛けてみると普通に座れた。
ちょっとした万能者の気分を味わいながら、彼を待つ。最初にかける言葉は決めていた。
正直なところどれくらい待ったかは解らない。
一瞬だったかもしれないし、三日だったかもしれないし、一月だったという可能性もある。
とにかく、何もなかっただだっ広い空間に、忽然と彼が現れた。
ああ、今すぐ駆け寄って抱きしめたい。
衝動を必死に押し殺して、彼と出会った頃のような胡散臭い笑みを顔中に広げる。僕のポーカーフェイスはこれしかない。まずは僕に興味を持ってもらわなければならないのだ。
彼はきょろきょろとあたりを見ている。早く気付いて欲しい気持ちともうしばらく観察していたい気持ちがまぜこぜになって、だがそんな時間は長くは続かなかった。
彼が僕を見る。
そして、
「……あれ?」
そう言って、こいずみ、と僕の名字を口の中で転がした。
ふいに泣きたくなった。
……ああ、彼女たちは呆れるほどに正しかったのだ。
僕も口を開く。愛していますと心の中だけで叫んで。
「おはようございます」
End.
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