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冬の窓辺
 
 
 
 「俺はあのとき、エンターキーを押したんだが」
 そう聞こえて、古泉は顔を上げた。
 もはや習慣のように古泉と元文芸部室で差し向かいにゲームをしているのは、一見ごく平凡な男子高校生である。彼には妙なプロフィールこそないが、内面も経験も平凡とは言い難い少年であることを古泉は知っている。
 彼はつまみ上げた白石を弄くっている。今日は二人して囲碁をやっていた。ルールを教えたのは古泉であるというのに、今日も今日とて盤面は彼の方が優勢であると伝えている。
 何のことだろうと古泉は一瞬考え、冬に彼が巻き込まれた事態のことであると察した。あの異常な吹雪の洋館で知らされた内容を、古泉はほぼ完璧に覚えていた。そして、彼と長門有希とが行った世界の改変と時間遡行についてなんやかやと聞いていたこともあり、さらに詳しいことを知っているとも自負している。
 しかし、彼からその話題に触れてくるのは珍しいことだった。最近では尋ねる古泉を鬱陶しがる素振りも見せており、あまり語りたくないことなのだろうとは思っていたのだが。
 彼は古泉の顔も盤面も見ていなかった。ただ指先で弄ぶ碁石を見ている。
 「はい、そうお聞きしました」
 古泉は相づちを打ち、ぱちりと黒石を置いた。
 二人の声が潜められているのは、部室の片隅で朝比奈みくるがうとうとと居眠りをしているからだ。一月の寒い日だったが、彼女の足下には部室で唯一の暖源である電気ストーブが赤く働いている。もちろん、遠慮するみくるを二人がかりで説得した結果に他ならない。彼女の眠りを妨げないようにと留意する彼にならって、古泉も同じようにしていた。
 ここにいるべき人物で不在なのは、コンピュータ研に赴いているらしい長門有希と、団長にして根元の涼宮ハルヒである。ハルヒは買い出しに行くと言って一度部室に鞄を置いた後、校外のコンビニまで走っていった。
 「後悔はしていない……が、一つだけ気になってることがある」
 彼はほとんど考えるふりもせずに持っていた白石を置いた。その白石が、窓から差し込む冬の日光に照らされて奇妙に光って見えるのを、古泉はぼんやりと見つめる。
 「なんでしょう?」
 古泉は石を取り上げずに、長考の構えに入った。その様を見ているのかいないのか、彼は鷹揚に切り出す。
 「お前のことだ」
 彼は早くも次の白石を手に取っている。
 少しだけいつもの爽やかな微笑みを減じさせた古泉は、ぱちぱちとゆっくり瞬いた。
 全く予想外の答えだったからだ。彼が女性陣よりも古泉のことを気にかけることなど、そうそうあることではない。それは、例えSOS団活動のない休日の半数以上を共に過ごすような関係になってからも、である。
 古泉の言葉を待たずに、あるいは聞く気がないと言わんばかりに、彼は続ける。
 「あっちの、ある意味正常かもしれんかったがとにかくおかしかった世界でなら、お前は機関にも超能力にも世界の危機にも関係なく、くたびれるバイトに明け暮れることもなく、自分の意思でハルヒのイエスマンになって、ハルヒを……好きで、一番近くにいられたんだからな」
 お前の番だぞ、と完全に動きを止めた古泉を何でもないかのように促して、彼は手に持った白石の角でテーブルを叩いた。かつん、と乾いた音は思ったより大きく響いたらしく、少し慌てて朝比奈の方を見やる姿まで古泉は見つめていた。
 はっきりと信じられないことを彼は言ったのだ。
 古泉は半分も動かない頭で、黒石をゆっくりと盤に置いた。
 あちらの『自分』が涼宮ハルヒのことを好きだと彼に言ったことはすでに聞かされていた。
 その時はたしか、確かに魅力的ですしその状況なら恋に落ちていてもおかしくはなかったかもしれません、あなたと会っていないことが前提ですけどね、などと返して露骨に嫌そうな顔をされたのだったが。
 その話題を彼が持ち出したのは一度だけで、それからずっと触れなかった。
 だから古泉は、きっと彼は気にしていないのだろうと思っていた。事実、彼の態度はほとんど変わっていなかった。
 ただ、時折。
 そっとこちらを伺うような仕草をしなかっただろうか。バイトに行くと言って携帯電話片手に彼の前から去った時、気遣うような視線がなかっただろうか。いつものように団長殿に追随する時、どこか痛ましげな表情を浮かべていなかっただろうか。
 古泉は打ちのめされたような気分になった。
 一月あまりの間、彼はそんなことを考えて悩んでいたのだろうか。
 自分に悪いことをしたのかもしれないと、だがそれを聞く気にはなかなかなれず、できる限り普段と同じ風を装っていたと?
 僕はばかだ、と古泉はちいさく呟いた。
 彼はそれを聞いているのかいないのか、だが普段なら置かないだろう場所に白石を置いた。その石が奇妙に光って見えたのは、彼の指から離れてすぐだからだと古泉は気がついた。
 「……それでもあなたは選んだのでしょう」
 彼の双肩に世界の選択は委ねられていた。それは世の大多数の生物には関係のない選択だったとしても、確かに彼は選んだのだ。こちらの世界を。
 「ああ、選んだのは俺だ」
 彼はそっぽを向いたままだった。次の白石を指先で弄くってはいたが、もう古泉は黒石を手に取らなかった。それを知っていて、彼は白石を持ち続ける。
 「例えば、これは決してありえないことですが、僕があなたと同じ立場に置かれたとします」
 ゆらりと揺れていた白石が止まった。聞いていないように見えて、彼はきちんと古泉の話を聞いている。どんなときでも、だ。
 「僕はどうすると思いますか?」
 「そんなもんは知らん」
 即答だった。
 考えたくないと言いたげな、聞きたくないと言いたげな声だった。
 少しばかり考えるポーズを取ってから、古泉は続ける。
 「僕は迷いませんよ。長門さんに恨まれようが、朝比奈さんに泣かれようが、涼宮さんに頼まれようが、僕はこちらの世界を選びます」
 朝比奈さんを想像でも泣かせるんじゃない不届き者め、ぐらいは言われるかと思ったが、彼は何も言わなかった。ただ黙って、ゆっくりと古泉を見た。
 目が合う。
 「確かに超能力者ではない僕というのは魅力的ですがね、僕はこれでも僕なりにこの異常ともいえる世界を愛しているのですよ」
 背もたれにもたれると、ぎしりとパイプ椅子がきしむ音がした。
 みくるはまだ起きず、誰も部室に入ってくる気配はない。部室棟全体が冬の寒さに縮こまっているような静けさだった。
 「もちろんそれはSOS団の活動も含まれます。様々な怪現象もひっくるめてしまって良いでしょう。幼少の頃からの記憶が愛着を抱かせていることも認めます。ですがその中で最も僕が重要視するのは」
 彼は一見して表情をうかがえない微妙な顔で古泉を見ている。
 古泉はその距離を縮めるために、碁盤の手前に肘をついて身を乗り出した。
 「あなたですよ」
 そしてそっと、固まった指から白石を取り除いた。些か乱暴に器に放り込むと、その中の石とぶつかってぱしりと音を立てた。
 「あなたに感謝することはたくさんありますが、今回の件でも僕は感謝しているんです」
 ゆっくりと指先を触れ合わせる。
 「あなたはこの僕を認めてくれた」
 数多ある理由の中の一つでも、それだけで僕は嬉しいんです。
 彼は一度口を開きかけて止め、手に軽く力を込めた。
 「あなたを知らない僕に価値はないと、僕は愚考しますね」
 古泉は微笑を深くした。
 「…………ばーか」
 ようやく言葉を見つけた彼はそんなことを言って、手を振り払った。
 古泉は言葉を重ねようとしたが、ばたばたと足音が聞こえてきたので止めた。
 再び椅子に背を預け、黒石を持ち上げたところで盛大な音と共にドアが開く。
 「たっだいまー!」
 「ふ、ふぇっ?」
 その音で目が覚めたのか、みくるはぱちくりと目を瞬かせた。
 「なあにみくるちゃん、居眠り? 冬なんだから風邪引くかもしれないわよ、気を付けなさい! むしろ、二人ともどうして起こしてあげなかったの!?」
 コンビニの袋を振り回しながら、ハルヒは賑やかに団長席に着いた。みくるはまだ少し眠そうに目を擦りながら、お茶の用意を始めている。
 「うたた寝ぐらい平気だろう、昨日よく眠れなかったとおっしゃってたしな」
 「うーん、まあそれなら……でもねえ……あら?」
 ようやくみくるの近くにストーブが置いてあることに気がついたハルヒは、満足そうに頷いた。みくるの定位置が団長席の近くなのだから、彼女の回りも暖かいに違いない。
 「割と気が利くのね! こういうのをするのは古泉くんだわ、そうでしょ」
 自身が太陽のように暖かさと輝きを放つ彼女を、古泉は彼とは違うまぶしさと共に見た。
 お湯を沸かす彼女も、今はいない彼女も、古泉にとってはまぶしく見える。
 「いいえ、彼と二人でお勧めした結果ですよ」
 「はい、譲ってもらったんです」
 淹れ立てのお茶をハルヒに差し出しながら、にっこりとみくるが笑う。
 そうなの、と頷いたハルヒは、一気に熱いお茶を飲み干して、まあいいわと笑った。
 「さあ、有希が来たらSOS団プロデュースの新製品の案を考えるわよ!」
 「おい待て、何をするつもりだ」
 その光景をほんの少し弧を描いた口元とともに見ていた彼は、ハルヒの言葉に慌ててストップをかけた。
 「そう、コンビニに行って来たんだけどね、その新製品があまりにも――」
 がさごそとビニール袋を漁りながらハルヒ理論をぶちまける彼女を、彼は諦めの入った視線で見、古泉は常の微笑で見ていた。
 前触れもなくドアが開いて、音もなく長門が入ってくる。そのまますっといつもの椅子に座り、本を取り出した。
 「有希、ナイスタイミングよ! それじゃ、これからSOS団ミーティングを開始するわ!」
 高らかに宣言するハルヒを見ながら、その声に紛らわせるようにそっと彼は呟いた。
 それは古泉の耳が壊れていたのでもない限り、『ありがとう』と聞こえた。
 
 
 
 End.
 
 
 
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