寝ても覚めても
幻聴が聞こえる。
そんな奇怪かつ不快な現象に俺が見舞われることになったのは、一週間ちょい前からだ。苦痛の坂道を上っている最中だろうと、授業中ぼんやりしてるときだろうと、部室でハルヒの演説を聴いているときだろうと、風呂に入ってるときだろうと、あまつさえ寝る間際まで聞こえるのだから始末が悪い。ついでにたまに幻覚までついてきやがるのだから、これは立派な精神攻撃だ。
そのおかげで俺は寝付きが悪くすっかり寝不足であり、授業中に居眠りという名の睡眠補給をしようと試みても、意識が落ちかけた瞬間に耳の奥に声が響くのだからおちおち寝てもいられない。ここ数日の俺はすこぶる優等生的な聴講態度を取っていることになり、ハルヒから不審に見られる有様である。俺が授業中起きているのがそんなに珍しいのか。もっとも、夏休みの足音が聞こえているこの時期では授業は短縮になっており、期末試験も終わっている今あまり詰め込むことはないのだが。更に言うなら、例え寝なくても頭の中に幻聴が響いてくるのは止めようがない事態であり、結局授業は聞こえてこない。故に、夜もろくに眠れず授業中も眠れない上に授業の内容も頭に入らず、幻聴がぼやけるどころかより鮮明になって脳内再生されるという最悪の状況である。しかも授業中にその幻聴に追随して考えたことを夜に思い出しまた眠れず……とかいう悪循環まで発生している。
ええい忌々しい、それもこれもみんなあいつのせいだ。
あの甘ったるい声が耳から離れないのも、存外に新鮮だった真剣な表情が幻覚として蘇るのも、みんなあいつのせいなのだ。
あれは、テスト休みで行った小旅行の帰りのことだった。実際は小旅行なんぞという楽しげなものではなく、ハルヒがきっかけとなって蘇った大昔の宇宙的情報の塊が起こしたよくわからん事件の被害者を救いに行っただけのことだが。ついでに言うならその主役はあくまで長門であり、俺と朝比奈さんと古泉はほとんど後を着いていっただけである。しかし、これはあくまで前置きであり、本題ではない。
新幹線から降りて在来線に乗り換え、なんだかぎこちない女性二人を見送って、俺は何故か古泉と共に帰り道を歩いていた。何を話したかは、正直なところ覚えていない。今日は疲れただのテストの結果が気がかりだ、お前は余裕そうでいいよな――なんてことを喋っていたんだろう、というのは現在の俺の想像だ。本当に、あの時俺が話したであろうことも、古泉が言っただろう相づちなんかも、覚えていないのだ。
あまりにも、あの幻聴のもとは生々しすぎて、他の全てがすっ飛んでしまったんだ。
暑い日だった。太陽が無駄にがんばりすぎていたせいで、なんだか夕陽までやたらと赤く見えた、そんな暑い日だった。
会話の合間、ふいに黙り込んだ古泉が足を止めたもんだから、俺もつられて立ち止まった。
どうした、と促す前に古泉は俺を見た。
それが、そりゃもう、今までに見たことがないような真剣な面持ちだったもんだから、とっさに言葉が出なかった。これから自分が連続殺人事件の犯人であることを自白しようかという顔で、古泉は口を開いた。
ああいっそ、そっちの方がマシだったかも知れないな。
「あなたが好きです」
数えてしまえばたったの8文字の言葉だ。年始の挨拶なんかよりももっと短い。だがその言葉は、俺の思考回路を復旧不可能にまで追い込むには充分な言葉だった。
例えば、それが常のような笑顔から出た言葉なら、俺は笑えない冗談はよせ、としかめっ面で返すこともできただろう。もしかしたら真剣な顔のところから冗談だったのかもしれないが、古泉のデフォ顔は見事なにこにこ面であり、それを崩してまで俺をからかったところで意味はあるまい。
夏の暑さに浮かされたのなら、気色悪いことを言うな、と一発殴って正気に戻してやることだってできたはずだ。なのに、俺はそうしなかった。
ただただ頭が真っ白になり、なんだそれはいきなり、だとかそれならそれでもっとアピールとか、いやしなくてもいいされても困る、などとわけのわからん文章が大脳皮質に浮かんでは消えていくだけであり、表面から見ればぽかんと突っ立っているだけだっただろう。
しかしそんな間抜けな俺に古泉はすみません、と謝った。
何を謝るんだ、と咄嗟に思ったが声には出なかった。
「忘れてください」
……ええい、そんな顔をするんじゃない。真剣な表情の次はそれかよ、美形の顔ってのはなんで何やっても似合うんだ。
そんな、GWで会ったいとこが欲しいケーキを我慢してるみたいな顔をするな。あのときは俺がさりげなく譲ったが、今回はそんなわけにはいかないんだぞ。
大体、忘れろとかいう声まで無駄に甘ったるい声なのはどういうことだ。このとき古泉が言ったのはたったの21文字だったにもかかわらず、その全てが妙に甘ったるい響きを内包しており、耳の奥にひっかかって離れなくなるような、そんな言葉だった。
いつものようにべらべらと楽しそうに一演説に紛れさせたならばこんなインパクトはなかっただろうに。どうしてこんなことだけ、普段と違った自分を演出しやがるんだお前は。
ここで古泉がつきあってくださいとか言い出したなら、俺はきっぱりとお断りというやつをやっただろうよ。そしたら俺は初めての告白が男であったという黒歴史を、古泉はなんとなく青春の一ページになるような思い出を、お互い抱えていくことになったのかもしれない。だが、古泉はそれを言わなかった。
あまつさえ忘れろと言った。
そして俺は何も言わなかった。
何も言わなかったくせに、未だに幻聴に苦しめられている。
赤い夕陽に照らされたあいつの顔だとか、普段通りに去っていく背中だとか、そんなもんが幻覚で見える。
さてどんな顔で対面したもんかと些かの緊張を持って迎えた休み明け、古泉はごくごく普通に接してきやがった。僕はもう忘れましたよ、とでも言いたげに。俺としても、普通に団員として接する分には害もないからそれでいいはずだった。
だったのに、幻聴はさらにひどくなった。
今日も今日とて占拠された文芸部室に足を運んでしまうのはもう習性と言ってもいいな。
せめて部室でなら寝れるかと思ったが、幻聴幻覚の原因がいやがるためにさらに寝られないことが発覚した。古泉の顔を見ると声だの諸々が浮かんでくるのはなんだ、なんの呪いだ。
本日も麗しい天使のごとき朝比奈さんから賜ったお茶をちびちびと味わい、定位置に指先のみを動かしながら読書する長門の姿を確認し、古泉のゲームに付き合う気にもなれず、なるべく幻聴に耳を貸さないように心していたところ、ハルヒがやってきた。
足音高く、この暑いのにご苦労なこった、と思っていたらこいつでも暑いのには変わらないらしく、校内で一番涼しいところを発掘するわよ! などと言い出した。
間違いなく一番はクーラーがついている職員室及び校長室だ、などという俺のツッコミは、そんな文明の利器なんかに頼らないところよ! とやっぱりエクスクラメーションマークつきで言い返された。じゃあお前は家でクーラーに当たらないのか、と言いかけてやめた。暑い日によけい暑くなるようなことをする必要はない。
そんなわけで、本日のSOS団の活動は校内探索と相成ったわけだ。やれやれ。
校内などいまさらこの女に知らないところがあるとも思えないのだが、とにかくハルヒは涼を求めて楽しげに去っていった。その背中を見送ってから朝比奈さんは戸惑いながら歩き出し、長門は目的地が決まっているかのようにすたすたと歩いていった。てっきり長門は部室に残るものだと思っていたのだが、もしかしたらみんなと一緒になんかやるのが結構好きなのかもしれないな。ちなみに一番涼しいところを見つけた団員にはハルヒ団長様からお褒めの言葉を賜れるそうだ。いらん。
そして、俺は当然そんな涼しいところなどに心当たりはなく、そんなところを見つけるために汗かきながら歩き回りたくもない。少し探すふりならしてもいいのだが、それは後回しだ。
俺は可及的速やかに、幻聴をどうにかしたいのだ。
さてそのきっかけが古泉なのだから、どうにかするのに古泉を使うのが筋ってものだろう。
大体、俺がこんなに悩まされているというのに涼しい顔をしているこいつが気にくわない。
そういうわけで、なぜだか部室前の廊下で俺と並んで動き出さない古泉に声をかけた。
「古泉、ちょっと顔貸せ」
「探索しなくていいので?」
ええいやかましい、お前だって行く気なかったんだろうが。
「後でなんか適当に探せばいいだろ」
「……かしこまりました」
部室に留まっているところを見つかったらハルヒがうるさいだろうから、俺は古泉を連れて部室棟の端まで歩いてきた。目の前の部室で活動している様子もなく、廊下の端には小さいクモの巣が張っているという絶好のロケーションだ。掃除してるのか?
「お前のせいだ」
前置きもなしに言ってやったら、古泉は笑顔のまま目を瞬かせた。つくづく器用な奴だな。
「何がでしょうか」
「お前が、あんなことを言うもんだから」
すいと笑顔が消えた。ほんの少しだけ眉を寄せて、なんだ、なにかに耐えるような顔になる。
「それは、忘れることもできないほど気持ちが悪かったということでしょうか。それとも、そんな僕と一緒の空間にいることすら耐えられないとか、そういうご用件ですか」
なんだそれは、その理論の飛躍はどうにかしろ。そんなこと一言も言ってないだろうが。
「しかし」
うるさい、とりあえず黙って俺の話を聞け。
「……はい」
そして、非常に使い古された比喩を使うなら、死刑宣告を待つ容疑者みたいな顔をして、ようやく古泉は黙った。あの夕方で動かなかった口がよくもこう回るようになったものだ。
「とにかくだ、忘れてやろうにもあのときのお前の言葉が頭から離れん。幻聴のように年中頭に蘇ってくるんだ。お前のせいなんだから、どうにかしろ」
おかげで俺は寝不足だ。
さて古泉は――その古泉の顔を、俺はきっと後五年は忘れないだろうと思った。
おい、数秒前まで漂わせていたアンニュイな雰囲気をどこに置いてきた?
本気で驚いたような、鳩が豆鉄砲どころか打ち上げ花火をぶつけられたような驚きに満ち満ちた顔を取ったかと思うと、古泉は笑った。笑ったんだ。
それが笑顔だというなら、普段のあの顔はなんなんだと言いたくなるような、そんな顔で笑いやがった。
「一つ二つ、聞いてもよろしいでしょうか」
なんだ、こうなったらとことん聞いてやろうじゃないか。
「夜も僕のせいで眠れないと?」
ああ、授業中のささやかな睡眠タイムすらな。尤も、答案返しが大半ではあるが。
「……僕の声が忘れられないと?」
だから幻聴だと言ってるだろうが。お前の声だけリフレインしやがるんだ。
「あの、怒らないで聞いていただきたいんですが」
わかった。今の俺はどんな怪しげな民間療法だろうが頼りたい気分なんだ。それが古泉、お前の解決法だろうと聞いてやる。なんてったって原因が責任を取るのは当たり前だろう。
「誰かのことが気になって夜も眠れないというのは」
そこで言葉を切って意味ありげに目配せをしてくる。だからお前と目と目で通じ合う趣味はない。
「一般的に、恋煩いというものではないでしょうか」
ほうそうか、恋ね。誰が誰に? 俺が古泉に。
オーケー、一発殴らせろ。
「……だって」
両手を降参だというように軽く上げて、それでも古泉は笑っている。
「あなた、顔が真っ赤ですよ」
やかましい、顔面に急速に血液が上がってきたのはこの廊下の暑さのせいであり、決して他に要因などない。ない……はずだったのが。
例えば、あの夕陽の中で古泉がつきあってくださいとか言い出したなら、俺はお断りしただろう。
だが、あの幻聴の源を口にしたとき、古泉は他のことを何も言わなかった。俺も何も言わなかった。あるいはあのとき口を開いてさえいれば、なにか変わったのかもしれない。
これが全て古泉の計画通りだとしたら、大した策士だよお前は。
俺に幻聴を聞かせ続けることで、よくわからん世界に俺を引きずり込んだんだからな。元々変な世界に全身浸かっていたといってもいいのだが、さらに訳がわからん。
「かなうはずがないと思ってました」
真っ昼間だというのに少し薄暗い廊下の端で、俺は変わらず古泉と向かい合って立っている。
頭の中では実に理解不明な感情を整理しようとできの良くない脳みそがフル稼働しているが、きっと意味がないだろうことを俺は心で知っていた。
「だけど僕は……望みを持ってもいいのでしょうか」
ああ、そんなに幸せ全開で笑うんじゃない。余計幻覚がひどくなったらどうしてくれるんだ。
「それは好きにしろ。だが……俺からは、もうちょっと待ってくれ」
もう少し、流されたとかたまたまだとか、そんな理由をつけなくても俺から古泉にきちんと言えるようになるまで待ってくれ。自信はないが、きっとそんなに時間はかからないだろう。
「はい」
ここにきて俺は、古泉の顔も赤みを帯びていることに気がついた。こいつも照れてるのか。それは、悪い気はしないな。
「では、頭を冷やしてから涼しい場所を探しに行きましょうか」
あー、なんか二人してこのままじゃ人前に出せない顔をしてるからな。
って、ちょっと待て。
「古泉、結局幻聴の解決になってないぞ」
今は本物と向き合っているからともかく、わかれた後でまた始まらないとも限らない。
古泉は考える人の真似をするかのように顎に手をやり、自信はありませんがと前置いて、
……おもむろにキスしやがった!
「お前、何してくれてんだ!」
時間にして三秒もなかっただろうが、古泉はなんかもう目も当てられないほどどろどろの笑顔だ。その顔、すぐ普段のに戻るんだろうな?
「より大きな衝撃が加われば、言葉の印象は薄れるかと愚考しまして」
しれっと言ってのける。確かに凄まじいインパクトではあったが、今度はこれが頭から離れなくなったらどうしてくれるんだ。よりタチが悪いぞ。
「慣れてしまえば大丈夫だと思いますね」
慣れるほどやる気かお前は。
「あなた次第ではありますが……」
ええいその流し目を止めろ、無駄に似合いすぎる。
二人して水道で顔をばっしゃばしゃ洗い、蛇口を閉めたところで古泉から差し出されたタオルを受け取った。こんなもん常備してるのかお前は、運動部のマネージャーか?
「今日はたまたまですよ」
ありがたく使ってから軽く礼を言って返すと、古泉も同じように顔を拭った。前髪からぽたりと垂れた雫を除いて、もうすっかり普段の古泉一樹だ。
「しかし、先着順だったとは」
「何の話だ?」
「他の誰かが先にあなたに告白していれば、あなたはきっとその人についても一生懸命考えていたでしょうからね」
「そりゃ考えることぐらいはするだろうが、幻聴にまでなったのはお前だからだろ」
お前が無駄に甘ったるくていい声してるのが悪いんだ。他の人なら、まあ俺が告白なんざされることはまずないだろうが、あんだけ耳に残るってのはなかっただろうよ。
返事が聞こえなかったので古泉を見ると、こいつはタオルに顔を埋めていた。
「なにやってんだ?」
「いえ、あの……反則です……」
さっぱりわからんな、俺はイエローカードをもらうような真似をした覚えはないぜ。
とりあえず、これで安眠が戻ってくれば万々歳だ。
なんとなく今夜は眠れるだろうという漠然とした予感を抱きながら、俺は古泉を置いて階段の方へ歩き出した。中庭の木陰あたりなら、まだ風が通るところがあるだろうさ。
End.
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