魔法にかけられて



 今から遡ることしばし、国の首都からかなり離れたどころか一番近い村でも大分距離がある、へんぴな場所に城があった。その城は代々王国の跡継ぎ候補が住まう城で、国には似たような城がいくつも点在していたが、その中でも僻地に存在し、辺り一面が森という有様だった。それだけで、城の主が次代の王になるという可能性はかなり低かったが、城に仕える者たちも本人でさえも、まあ構わないかという心持ちで日々を過ごしていたという。
 何せ王制になってからも地方の村の自治力は強く、近くの村にさえ城の存在すら知られていない有様だったからだ。中央集権はこれだからと教育係は良く愚痴をこぼしたが、城の主は、つまり、王子はそんなことは気にしていなかった。
 食事は美味く、勉強は大変だが嫌いではなかったし、寝台は常に柔らかく整えられていた。側近や召使いたちは、つまり左遷されたにも等しかったがみな文句も言わずに彼に優しくしてくれた。友人と呼べる者も何人かいて、王子は確かに幸せだった。
 ある日のことだ。彼が森の中で日課の散歩をしている最中に、ゆるく波打った紫色の髪の毛に黒いフードをかぶり、上から下まで真っ黒なローブを身に纏った実に怪しい青年と遭遇した。金髪の困ったように笑う従者を連れており、喜八郎と名乗った。道に迷って難儀していたという、どこか街道には出られまいかと。
「それはお困りですね! この森には狼も出ます、この左門が城まで道案内をしましょう!」
 狼、の言葉に震え上がった従者のタカ丸の様子も見て、喜八郎はこの申し出を有り難く受け入れた。どこの城かは知らねど、そこから道に戻れることだろう、と。
 しかし喜八郎にとって誤算だったのは、この王子が実にどうしようもなく全く悪気もなく、方向音痴であったことだ。
 喜八郎の手を引きあっちだこっちだ、と雄叫びを上げて走り回るのはいいがどれだけついていっても目的地には辿り着かない。げっそりうんざりとする頃、日が暮れそうな時分になって一人の青年が迎えにやってきた。目元が凛々しい美青年だったが、そのまなじりは吊り上がっている。
「こら左門! 散歩はほどほどにといつも……? 誰だ」
 青年は彼の手の延長上に喜八郎を見て怪訝な顔をした。喜八郎は肩をすくめて、被害者ですとおどけてみせた。タカ丸に至っては後方でへろへろとしている。
「……まさか王子に道案内をさせたのか」
 命知らずな、と青年、三木ヱ門は十字を切った。失礼な、と抗議の声を上げる彼を無視して、喜八郎に謝る。
「すまないな、こいつは生まれてこの方、方角を理解したことがない方向音痴なんだ」
「言い過ぎだと思います!」
「黙れ!」
 謝罪を受けても、ふうん、と喜八郎は生返事をするばかりだった。肩に担いだ踏み鋤がきらりと光る。
 三木ヱ門に連れられて城に到着すると、庭園は半分が美しい花壇で覆われていたが、半分は畑になっていた。通りかかる使用人は揃ってまた迷子か、と明るく声をかけてくる。
 城の表口を開けると、これまた何人もが彼らを出迎えた。喜八郎は城には入らず、入り口付近で立ち止まる。どうかしたのかと振り返る三木ヱ門と王子だったが、片方の視線はあらぬ方を向いていた。
「たかが方向音痴、されど方向音痴、だよね」
 ぽつりと呟いた後ろで、タカ丸が複雑そうな顔で成り行きを見守っている。
「人に迷惑をかけるような悪癖は強制すべきだよねえ」
 むにゃむにゃ、と口の中で何事か呟いた喜八郎の指先から光線が飛び、王子に当たると、七色の煙と共に王子の姿ががらりと変わってしまった。驚き慌てる周囲を尻目に、喜八郎は平坦な調子で続けた。
「これは呪いだよ。野獣の姿になって、自分を見つめ直して、迷子が治らないと解けない呪い」
「無理だ!」
 慌てていたというのに、ほぼ全員が口を揃えた。王子は目をぱちくりさせながら、自分の手を見ている。



「なんだこれ」
 大広間は、見事に荒れ果てていた。上等な天鵞絨で出来た絨毯が泥にまみれているのはかわいい方で、暗がりにひっそり置かれていたらしい家具はひっくり返っているし、正面でアーチを描いている階段の手すりは一部壊れている。甲冑は倒れて凹み、窓枠も壊れ、どういうわけが床も一部陥没していた。
 ひでえなあ、と自身も兄に習って大工の技を身につけつつある作兵衛はさんさんと日が照る中で腕を組んで辺りを見渡した。放置されて自然に朽ちたような荒れ方ではない。どちらかというと、人為的なものだ。
「……左門! だから今日は客が来るかもしれないと」
「だからこそ城の奥にこもっているべく歩いているのではないですか! 邪魔をしないでください!」
「そっちは城の入り口だこの阿呆!」
 確かに人の声がして、作兵衛は階段を見上げた。それが文次郎という人でもそうでなくても、伝言を頼むことは出来る。そうして再び、作兵衛は絶句した。
 階段をほとんど駆け下りてくる、それと目が合ったからだ。ひらり翻るマントは質の良い赤色で、身に纏っているのも相応のものだろうと推測は出来た。
 だが洋服の端から出ている手足は焦げ茶の体毛に覆われている。顔は、おそらくベースは獅子のそれだ。だがこめかみの辺りから生えたねじれた角が、ただの獣ではないと告げている。そこばかり緑色の、太い眉の下に団栗眼が見えた。
「……野獣?」
 小さな頃、まだ都にいた頃に聞かされた昔話の一つに、たわいもないおとぎ話があった。こことは違う世界の獣で、それは野獣という。見かけたらすぐに逃げないと、あちらの世界に連れて行かれてしまうよ、と。
 だが、それは、大きな体躯を持つとのことだった。目の前に現れたのはどう見ても、
「……ちいさい」
「普通だ!」
 作兵衛の口から野獣、と聞いた時は少し顔を歪ませていたそいつは、次に出てきた言葉に素早く反論した。慌てて我に返り、うわあと作兵衛が後ずさる。
 左門の後ろには自立したホウキが所在なさげに佇んでいたりしたのだが、作兵衛はそれどころではない。
「いやなんか三メートル以上のイメージだろ! なんで俺と同じぐらい!」
「ちょっと大きいぞほらっ!」
「あ、本当だ」
 並んでみると、わずかに見上げる位置に顔が来た。つい見上げてしまってから距離の近さに、喰われる、と作兵衛の顔が硬直する。
「僕は左門だ。あなたが留三郎という人か?」



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