あっちはダメ!



 今日はいい日だ、と作兵衛は上機嫌で本を読んでいた。
朝食で出た卵は双子だったし、授業では火薬の配合が上手くいったし、実技は剣術だったので移動に気を揉まないで済んだ。
ついでに放課後の委員会も無く、こうしてのんびりと図書室で本を読んでいられる。委員会は勉強にもなるし好んでいるのだが、たまには一人で過ごすのもいい。
何故だか四年の先輩二人に引きずられていった同輩二人が気にならないと言ったら嘘になるのだが、夕方になっても戻って来なければ様子を見に行けばいいか、程度には楽観視している。
 ぴしりと背筋を伸ばしたまま一冊を読み終えて、作兵衛は静かに立ち上がった。せっかくだからと、実用的な書ではなく戦記物のおすすめを今日の当番らしい不破雷蔵に教えてもらっていた。彼は悩みに迷った末に前に読んだことがあるんだ、と言って一冊の本を差し出してくれた。
作兵衛が普段読むような道具の扱い方や方向の確認の仕方、水場の見つけ方や目印を探す方法などは全く書かれていなかったが、物語がつくり出す世界は少年を夢中にさせてしかるべきものだった。続き物だったので、早速二巻を探しに足音を立てぬように歩き出す。
 受付に座って作業をしていた雷蔵がこちらに気づき、作兵衛がわかる程度のゆっくりとした口の動きだけで面白かった?と問うてくる。
委員長が不在でもこの心地よい静けさを守るための気遣いに、作兵衛はにこりと笑った。頷いて、とても、と口だけで返すと雷蔵の方もにこりと笑う。
 しかしほんわりとした空気もそこまでだった。
「富松作兵衛!」
「いるか!」
 ばん、と開けられた音に、名指しされた作兵衛を含め室内にいた全員の肩が一瞬上がる。





「……左門と三之助を捜していたので」
「焦って気付かなかった?」
 図星だった。如何に目印が無かったとはいえ、見慣れているはずの落とし穴を発見できず、対処も出来なかったのは作兵衛にとって恥だ。相手が天才と呼ばれていようとも、それとこれとは話が別だった。
 言葉を返せないまま拳を固めて俯く作兵衛を、喜八郎は至近距離で見つめた。頬に、そっと手が添えられる。
 驚いて見上げると、まるい目が待っていた。指は、爪の間まで泥が入り込み、手のあちこちに切り傷の跡と何回も潰れてこさえた肉刺がある。
「あの二人もそうだ、上手く僕の罠を避けてみせる」
「そうなんですか」
 同輩が褒められれば嬉しい。それが左門と三之助なら尚のことだ。行動の意味を問う前にぱっと表情を明るくした作兵衛に、喜八郎は目を細める。
振りほどかれないのは彼にとって想像外だった。
「だから、うん、今日ぐらいはまともに引っかけてみたいと思って」
「当てが外れましたね」
 苦笑する作兵衛の頬に添えた手に、ゆっくりと力を入れる。するりと指先を滑らせると、彼は薄く肩を揺らした。
「そうでもない」
「……綾部先輩?」
 目の前の先輩の雰囲気が妙だ、と作兵衛が気付くのは少々遅かった。
落とし穴の中、背中には土壁、眼前に喜八郎だ。制服と擦れ合った箇所から、乾いた土くれがぼろりと落ちた。
 すいと喜八郎が身を屈め、作兵衛の顔に影が落ちる。見上げる目はまるく開かれ、その表面をうっすらと疑念が覆っていた。
「作兵衛」
 低学年の頃にさえ何回も呼ばれなかった名前を呼ばれて、作兵衛はぎょっとした。
左手の指がすっと伸びてきて、跳ねた前髪を退かす。
 ゆっくりと近づいてくるその顔は、確かに微笑んでいた。柔らかく緩んだ目元、ふわり綻んだ唇、確かにそれは笑顔だった。作兵衛にとっては見覚えのない表情だったが。
 意図がわからない。作兵衛はぽかんと目を見開いたまま、喜八郎を見つめ返していた。
頬に添えられた手が動かないようにと力を加えていることに、今更気付く。
 だが、何故だ?
「作兵衛!!」




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