見知らぬ側面



 がたり、と用具倉庫の扉に触れて音を立てたのは、決して潮江文次郎が信念に背いて油断をしていたわけではない。
むしろ人を訪ねる時に気配も音も消し去っていたのでは不自然に過ぎる。そんな言い訳に似た文言を心中に連ねながら、文次郎は薄暗い倉庫の中を見回した。
「失礼する、食満留三郎はいるか」
 聞くまでもない問いだった。用具倉庫は入り口から全てが見渡せる造りにはなっておらず、棚を何度か迂回しないと奥までは辿り着けない。
しかし文次郎は一見しただけで留三郎は不在だと判断していた。気配がない、というのも理由の一つではあったが、文次郎はそこから確信に至る情報を持っていた。
「会計委員会委員長の、潮江文次郎先輩」
 お約束の誰に聞かせるでもない解説をしながら、正面の棚を確認していた後輩が慌てて走り寄ってくる。用具委員の三年生、富松作兵衛だ。どことなく怯えたような表情で、文次郎を上目遣いに見た。
「すみません、食満委員長は先程出かけてしまいまして……ご用事ですか?」
 他にわちゃわちゃと駆けてきたり棚に隠れてじっとこちらを伺うような一年生はこれまた不在のようだ。
文次郎の眼前に立った三年生は、用事だったらまた喧嘩になるのだろうかといった不安が顔に表れている。忍者がそう簡単に心中を悟らせてどうする、と怒鳴りたいのを文次郎は抑えた。
本人がいるならばやぶさかではないが、話が進まないのは本意ではない。
「用具の貸し出しを頼みたいんだが、話は聞いているか?」
 普段用が無ければ、どころか用があっても近づかない用具倉庫にやってきた理由がそれだと聞いて、作兵衛は目を瞬かせた。
しかも口ぶりからすれば、委員長には話を通しているということになる。珍しいこともあるものだと思いながらも、伝言も何も聞いていない作兵衛は視線を巡らせた。







宙に浮かぶ



 無自覚、というのは厄介なものだった。三之助に道に迷っているという自覚はない。
山道に入り込んでしまえばこれはおかしいなと気がつきそうなものだが、体育委員会のマラソンで道なき道を走ることに慣れているのだから頓着しない。何故体育委員会に所属するのを止めなかったのかと作兵衛は幾度も後悔している。
そして自分では正しい方角に、間違いなく進んでいると思っているのだから質が悪い。立ち止まらない、思考しない、ふらふらと思ったままの方に進んでいく。
作兵衛が気にも留めないような動くものや雲の形にまで誘われていくのだから、観察力があるというのも考え物だ。
より遠くへと行ってしまうのは決断のまま真っ直ぐ突き進む左門の方だが、三之助の方が恐らく距離は稼いでいる。
 最初の一歩を踏み出す方向を選ぶのは、もうほとんど勘しか無かった。金吾が巡らせても見つからなかっただろう地形、距離、掴みきれない三之助の足癖を総合して、それを作兵衛は勘と呼んだ。
そうして三年生ではまだ消しきれない、山道を歩いた時の痕跡を捜す。
何でも良い、ぱきりと折れた枝の新しさでも、落とされた花の一つでも、踏まれた草の跡でも。それを隠すのが巧みになってくる上級生に上がった時のことを考えてぞっとするのは作兵衛の良くある思考であったが、その頃には自分がもっと経験を積んでおけば差し引きゼロになるだろう、と彼の妄想にしては珍しく楽観的な結論に至る。
そうでもなければやっていられないとため息を落とす彼の思考に、迷子捜しから解放される己の図は存在しない。いつまでも捜してやるつもりなのかと、心優しい同級生たちは突っ込まずに見て見ぬ振りをしている。
 ばらりとまとめて葉が落ちた藪を見つけて、作兵衛はその場に膝をつく。折れた葉の切り口がまだ瑞々しい。
良し、と作兵衛は口元に笑みを刻んだ。







不注意御免



 危ない、と思った時には飛び出していた。背後から先輩の焦ったような声が聞こえたし、放り出した木箱から釘や金槌が飛び出た気もしたが、構ってはいられなかった。
 結果、富松作兵衛は間一髪で後輩を庇うことに成功した。咄嗟に抱えた後輩の見開いた目に、何も映らないようにと強く抱きしめて、己の体も丸める。
 背中に落ちてくる角材の痛みを甘んじて受け止めて、零れそうになる苦痛の声は奥歯を噛みしめて閉じ込める。どん、と一つだけ感覚の違う金属に穿たれて、作兵衛は息を呑んだ。
「とまつせんぱい……!」
 果たして叫んだのは腕に抱えた後輩か、はたまた一瞬だけ見た真っ青な顔をした後輩か、慌てて歩くような速度で走って戻ってくる後輩か。
 判断もつかぬまま、なだれ落ちる角材を全て背中で受けきった作兵衛は、駆け寄ってきた委員長の手で迅速にそれらが取り除かれていく間、顔も上げずにじっとしていた。
 抱えた体はかたかたと震え、泣かせてしまっただろうかと心配になるが、動いては拙い。
重みがほとんど無くなった頃には、引きつり泣きの声が辺りに響いていて、ああ少なくとも二人の後輩は泣かせてしまったと、作兵衛は自嘲した。
作兵衛、と低い声が耳元で囁く。
「抜くぞ」
 ぐっと奥歯に力を込めて、作兵衛は頷いた。背中に空いた小さな穴から流れる血が、じわりと肩衣に染みこむのがわかる。手拭いが傷口付近に押し当てられて、ようやく作兵衛は顔を上げた。
腕に抱えた後輩は、今ナメ壺を用具倉庫裏の日陰に置いてきている山村喜三太は、作兵衛と目が合うと途端に涙を溢れさせた。
「う、っえ、とまつ、せんぱい」
「あー……大丈夫だから、泣くな」
「富松先輩いいい!」
 走って近寄ってきた下坂部平太と、福富しんべヱは飛びつく寸前で食満留三郎に抑えられた。流石に安堵する。
どれだけ強がっていても、いくら相手が一年生でも、勢いよく飛びつかれたら耐えられる自信がない。
 別に、誰も悪くはなかった。






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