彼が切れる瞬間


日もとっくに暮れた路地裏を、二人のクルセイダーが駆けていく。肩を並べて走るには道は少々狭く、前後に並ぶように走っていた。やがて分かれ道に差しかかり、身振りだけで前を走っていた方が道を示す。それに無言で頷いて、青いポニーテールのクルセイダーはそちらと逆の道に走り込んでいった。先程までは三人で走っていたのだが、彼とは同じように別れた。
クルセイダーはますます狭くなった道を、盾や肩当てが引っかからないように用心しつつ走る。彼らは人を追っていた。土地勘はあちらにあるだろうが、見失うわけにはいかなかった。
その道に走り込んで、クルセイダーは足を止めた。少し広くなっている道の先は行き止まりで、両側の建物の高さは威圧感すら感じさせた。そのどん詰まりに、三人の男が立っていた。クルセイダーは静かに息を整える。間違いなく、彼らが追っていた相手だった。

事の始まりは、三ヶ月ほど前だった。冒険者のクルセイダーの一人が、行方不明になったと聖堂に連絡が入ったのだ。だがそれだけならばよくあることと言わざるを得ない。冒険者を止める時は冒険者証を始めとした様々な物品を当局に返還し手続きを踏まなければならないが、それをしない者も多い。また、モンスターに人知れず殺されている可能性も高い。最初は誰もそれを重要視しなかった。
だが、一ヶ月も経たないうちに届け出は増加していく。どれもこれも、町中で、夜消息を絶ったというものだった。
そして被害者は、駆け出しのクルセイダーが大半を占めていた。
プロンテラの市民たちや新聞が『クルセイダー連続失踪事件』と呼んだこの事件を、最初の通報から二ヶ月が経って聖堂は腰を上げた。見まわりを強化し、ある程度の経験を積んだ冒険者にも協力を頼んだのだ。事件発生から協力を頼むまでに間があったのは、聖堂と聖堂騎士団の意見の食い違いが原因であるという噂がまことしやかに流れていたが、当のクルセイダーたちにそんなことは関係がなかった。
放っておけないと名乗りを上げた冒険者と、元からの聖堂騎士団がチームを作って見まわりに当たり、そして今夜ついに尻尾を掴んだ。
すでに全員に連絡が行っているはずだと、抜いたツルギを片手にクルセイダーは思う。男たちは、追いつめられた様子もなくにやにやと笑っていた。
「――話があります」
クルセイダーは油断無く地面を一歩擦った。
「ここ最近のクルセイダーの失踪について……なにかご存じではありませんか? ご存じでないのなら、あなた方が先程なにをやっていたのかの説明をお願いします」
こんな時まで丁寧なクルセイダーの口調に、ついに男たちは爆笑で答えた。クルセイダーは表情を変えることもなく、ただそこに佇んでいる。
焦ることはなかった。先程別れたチームの面々も、やがてここにやってくるだろうことはわかっていたからだ。連絡を入れている暇は自分にはないが、他の場所の探索が終わった後ならばここに来るだろう。
「答えてください」
静かな声に答えたのは、後ろからの声だった。
「いいぜ、教えてやっても」
クルセイダーは弾かれたように振り向くと、そこに人影を確認して飛びずさりかけた。が、引き留められたようにその場に留まる。視界の端で、相対していた三人の男たちが近寄ってくるのを捕らえた。
四人目の男の腕には小さな子どもが抱えられており、その首筋に鋭い短剣が当てられていた。目隠しをされた子どもは気絶しているのか眠っているのかはわからないが、騒ぐ気配もない。
「ただし、あんたの身と交換だ」
子どもを人質にした男がリーダー格のようだった。残り三人はゆっくりと包囲網を縮めていく。
「……お断りします」
「おいおい、月並みな台詞言わせねえでくれよ?」
慎重に言葉を出したクルセイダーを、男は一蹴した。見せつけるように、子どもの髪に短剣を滑らせる。奇妙にゆっくりと、髪の一房が切れて落ちた。
「こっちは大サービスで体験させてやろうってのに、愛想がねえなあ」
「…………」
クルセイダーは唇を噛んで、少し屈んで手からツルギを離した。最小限の衝撃と共に、剣が地面に落ちる。腰に差したままだった海東剣を鞘ごと外す。
一人の小男が手早くそれらを拾い上げた。
「……これでいいですか」
「盾と、そうだなあ、鎧も外してもらおうか?」
これ見よがしに短剣をちらつかせる男を一瞥して、クルセイダーはマントを地面に落とした。


じじ、とランプの芯が焼ける音がする。そんな、普段でも気にならないような音を拾ってくる自分の耳がクルセイダーには不思議だった。
場所はあの行き止まりからすぐの家の地下に移っていた。暗く澱んだ空気の中、寝台には先程から目を覚まさない子どもが横たわっている。場所があまり移動しなかったのは幸いだった。他の人たちはどうしているだろうかと、クルセイダーは考えを反らす。
髪の毛を掴み上げられた。
「……泣かねえなあ」
やせぎすの男だった。その後ろで、リーダー格の男が腕を組んで見ている。彼はあらかた満足したらしい。這いつくばる姿勢から無理に引き上げられて首の筋が痛んだが、表情には出さなかった。どうせ、体中のどこを探しても痛くない箇所など見つからない。
ぱん、と横っ面をはたかれた。
「…………」
それでもじっとやせぎすの男を見返すと、気味の悪そうに目を逸らされた。
「これ売れるんすかねえ?」
禿頭の男がいやに陽気な声で喋り出した。リーダー格が肩をすくめる。
「強情なのがいいって奴もいるだろ。どうせ、ぼちぼちこの商売はおしまいだ」
「一度にやりすぎたんじゃね」
「かもな」
男たちの会話を一つ一つ噛みしめるクルセイダーと、やせぎすの男の目が合った。ちっ、と舌打ちする。
禿頭の男が体を離していった。ぎり、と奥歯を噛む。寝台の方から、つまりクルセイダーの後方からふらふらと小男が歩み寄る。
どん、と新たな衝撃が走った。
熱い、と認知する間もなく、上半身に辛うじて引っかかっていた肌着に赤い液体が滲んでいく。脇腹の横に、見慣れた鋼が突き立っていた。
「ぐ……うっ」
斬られた、との自覚は、ひっひっひ、という引きつった笑い声と共にやってきた。小男が手に持っているのはクルセイダーの愛刀だ。あまり同じ武器を使っている人は見かけない、ツルギという多少湾曲した剣だった。サーベルや海東剣の方が人気が高く、扱い方もそれとは少し異なる。毎日こまめに手入れをしていて切れ味が落ちていないのを、少しだけ後悔した。
血臭が漂うのを、クルセイダーは身を持って実感した。
「おいおい、殺すなよ?」
「へへっ、趣味なもんで」
「五体満足な方が高くつくっつーの」
「ほとんどかすり傷だろ」
禿頭の男が傷口を抉るように触れてきた。びくりと筋肉が反応するのを、小男はさも面白そうに笑う。
誰も、クルセイダーの雰囲気が変わったのに気が付かなかった。
渦巻くのは空気、散らすのは火の粉。
クルセイダーは剣を握るように拳を作る。
ちいさく、口の中だけでマグナムブレイクと呟いた。
「……っ!?」
巻き起こる炎は、魔法のそれとは違うものだ。凝縮された闘気が衝撃波になって起こり、それが摩擦によって一時的な炎を起こす。炎症もしない、半分はこけおどしのような炎だ。だが、衝撃は本物である。
男たちはクルセイダーを囲むように立っていたため、まともに衝撃を食らってたたらを踏む。クルセイダーは腕の力で体を起こし、小男の腕を強かに打った。耐えかねて取り落としたツルギを自らの手に握り、入り口から遠い方へと駆ける。
人質が横たわる寝台を後ろに、彼は四人の男と対峙した。
とっくにほどけてしまった長い髪が、その背を覆うように広がる。
おいおい、とまだ男たちは笑っていた。
「どこにそんな元気が残ってんだあ?」
リーダー格は呆れたようだったが、右脇腹から流れ出る血がクルセイダーの認識を変えている。
――ここは戦うべき場だ。
「諦めろって」
一番近くにいた小男が不用意に近付く。クルセイダーに己を傷つけられるわけがないと確信しているような足取りだった。

クルセイダーの脳裏に、冒険者になったばかりの頃に聞いた台詞が蘇る。

「俺たちは、とにかく前で敵を食い止めるのが仕事だ。別に仕留めたっていいんだけどさ、忘れちゃいけないのはPTメンバーを守ること」

「俺たちが倒れたら、後方まで敵が行くってことを忘れちゃ駄目だ。剣士系なら特にな。だから、例え相手がどんなだろうと、敵意を持って襲ってくるような奴だったら――」

――ためらうな、斬れ


「ぐっあああああああ!?」
右足を深々と傷つけられた小男は、もんどり打って倒れた。赤い血をまき散らしながら、床を転がる。
「いってえ、いてえええええ!!」
クルセイダーは転がる小男に見向きもせず、手首のスナップでツルギについた血を払った。
「てめえ……それでも聖堂騎士か」
他の人間がこの台詞を聞いたら、お前らが言える立場かと突っ込んだことだろう。だがクルセイダーはあくまでも真剣に返した。
「俺としても人を傷つけることはしたくありませんが……わからないんです」
優しげな視線はもうどこにも残っていなかった。
「果たしてあなた方が、人間といえる代物なのかどうかが」
モンスターを見る目で男たちを見た。
「……っ、このガキ!」
禿頭の男が大振りの短剣を抜いて走る。数歩の助走をつけて真っ直ぐに突いてきたそれを、クルセイダーは左手で押しのけた。盾があったら正面から受け止めていただろうが、今はその手にない。代わりに、ツルギを相手の胸に当てて真っ直ぐ引いた。
ぱっと血が散り、目を見開いたまま男が倒れかける。胸に真一文字に赤い線を引かれた男の、その傷口にクルセイダーは柄を握ったままの拳を当てた。
「ヒール」
そしてそのまま、どんと押す。男は小男とほとんど並ぶ位置に倒れた。傷口から血は止まっていた。ヒールの作用によりうっすらと、ほんの薄皮一枚だけがその傷口を覆っている。動いたりしたら間違いなく裂けるだろう。
ひゅっと空気を裂く音がして、クルセイダーはツルギを振るった。カンとナイフが床に落ち、間髪入れずもう一本が飛んでくる。最初のナイフは囮だったのだが、クルセイダーは左半身を僅かに引いただけでそれを左肩に受けた。
ゆっくりとそれを投げた、リーダー格の男の顔を見る。
「……狙いましたね?」
男が投げたナイフは、クルセイダーが避けていたら子どもに当たるような軌跡を描いていた。クルセイダーはやや難儀しつつ、ツルギを手に持ったままナイフを抜く。
血の線を引いて、クルセイダーはそのナイフを投げ捨てた。
ショックで動けない禿頭の男の眼前にそれが突き刺さる。
「おい、こいつ危ねえ……」
「んなこと言って、びびってんじゃねえよ」
やせぎすの男は退き気味だった。
「今更逃がせるもんか」
「逃げて頂くわけにはまいりません」
会話にクルセイダーが加わった。一歩、二歩、寝台との距離を考えながら足を進める。脇腹と肩から血を流しながら、まとわりつく液体を拭いもしないまま。
「やべえって」
ついにやせぎすの男が背を向けた。それを叱咤しようと振り返った男の目に、階段から踏み込んでくる者たちが飛び込んできた。
「動くな! 王国聖堂騎士団だ!」
クルセイダーの一群がどやどやと、さして広くもない部屋に入り込んでくる。とっさに動き損ねたやせぎすの男があっさりと拘束され、武装解除される。
それを見て、クルセイダーはほっと力を抜いた。ツルギの切っ先が少しばかり下がったのを、リーダー格は見逃さなかった。
数歩の距離を走って詰め、クルセイダーが避ける間もなく羽交い締めにする。
「無駄な抵抗は……」
「するさ、無駄だと決まったわけじゃねえ」
分隊長らしきクルセイダーの言葉を吐き捨てるように止め、リーダー格は顎をしゃくった。
「俺たちが逃げ切るまで追っ手をかけんなよ。おかしな動きがあればこいつの喉かっきってやる」
「逃げ切れるとでも?」
「逃げてやるさ」
「そうですか」
リーダー格と分隊長の会話に入り込んだのは、捕まっているクルセイダーだった。くるりとツルギの向きを変え、自らの太股を突き刺す。
「ぐっ、あ」
血臭がひどくなった。ぎょっとした顔で、リーダー格がクルセイダーを見る。クルセイダーも男の顔を見ていた。
「……どうしますか? この足の俺を引きずって、お仲間を抱えて、どこまで逃げますか。俺の死体はどこで始末しますか? こんな事になった後で、どなたか助けてくださる当てがあるんですか?」
「……狂ってやがる!」
得体の知れない衝動に突き動かされて、リーダー格は手に握っていた最後の短剣を振りかざした。誰もが間に合わないと思った。
だから誰も、横をすり抜けていった風に気が付かなかった。
それは、目に見えていたら赤い風だっただろう。
「バックスタブ!」
そのかけ声と共にリーダー格の背後に姿を現した風は、スティレットの柄の部分でその頭を盛大にぶん殴った。ぐらりとリーダー格の体が揺れ、スタン状態でその場にぶっ倒れる。
「おお……借りててよかったトリプルキンスチレ」
間抜けな感想がその場に響きわたり、階段から下りたところで成り行きを見守っていたクルセイダーたちが一斉に動き出した。
青い髪のクルセイダーは、目の前に突然現れた赤い風、ローグを見て目を瞬かせている。
「あーもうこんなに怪我しやがって! どうやったらこんなになるんだよ!」
言うが早いか、そのローグは白ポーションの蓋を開けて、クルセイダーの頭からかけた。ばしゃばしゃと上から下へ、傷口へと惜しみなく何本も開けていく。後飲んどけ、と一本手渡された。
「はあ……あの、こっちがどうしようもなくて、こちらが不可抗力で、こっちはやむを得ず……ええと……」
頭からポーションでずぶぬれになったクルセイダーに、ローグはマントを被せた。見覚えがある、クルセイダー自身のマントだった。
「はー……もう、心配かけさせんなよ、ホント」
「す、すみません」
「寿命縮んだし、色んな人に連絡つけたりしたんだぞ、後で謝らないと」
「あ、俺が謝ります」
「お前は気にしなくて良い」
クルセイダーの、怪我をしていない方の肩に手を置いてローグはがっくりとうなだれている。
目を上げた時には、もう愚痴めいたことを言っていた男の顔ではなかった。
「で、誰に知られたくない?」
「……できれば全員に……とはいかないでしょうか」
「ある程度は説明しないとだしな……」
ふう、とローグは憂いのため息を吐いた。
「なるべく努力はする。後、鎧なんかはセレスが運んでくれるってさ。とりあえず今日は風呂入って寝て……」
「失礼」
周りが慌ただしく動いているのを意識の外に置いていた二人は、声をかけられて一斉にそちらを見た。先程男と交渉しようとしていた、落ち着いた物腰の分隊長が立っている。
「私は王国聖堂騎士団第二分隊の隊長だ。ご協力に感謝する。……こちらの力が足りず、申し訳ない」
二人に宛てて言い、深く頭を下げた。クルセイダーが慌てる。
「そんな、止めてください。こちらこそ、捜査のお役も立てず申し訳ないです」
「俺は友人の手助けしただけっすから」
分隊長は顔を上げ、二人をまじまじと見た。それから、ローグに微かに値踏みするような顔を向けてくる。ローグは真っ向からそれを受け止めた。
「失礼だが、身元の確認を」
「あ、はい」
クルセイダーは左の二の腕にくくりつけられた冒険者証を取り出し、分隊長に渡した。
「今回はミントスさんのチームに配属されていました」
「なるほど。こちらは?」
ローグはどこから取り出したか分隊長もクルセイダーもわからない冒険者証を渡した。
「こいつの家主みたいなもんです。住所はそうだな、こいつの兄が聖堂所属なんですが、そいつの登録場所になってるはずです。そいつも含めて何人かでシェアしてるんで」
「わかった。彼の名は?」
幾つかの分隊長の質問にローグが答えている間、クルセイダーは不思議な顔をして座っていた。恐らく彼にはローグが察している分隊長の思惑には気が付かないままだろう。要するに、ローグも犯人たちの一味なのではないかと疑われているのだ。失敗した実行犯を始末にくる黒幕配下の人間は多い。仲間が裏切った振りをしているのかもしれないと考えられたのだろう。ある程度は仕方のないことだとローグは諦めている。クルセイダーやプリーストが必ずしも善人でないように、ローグやアサシンが悪人であるということはない。概ね普通に冒険者としてやっていけるのだが、中には犯罪に手を染める輩もいる。全ての可能性を潰さなければならない分隊長殿も大変だな、とローグは心の中で呟いた。
「じゃあ悪いですが、こいつ連れて帰ってもいいですか? 休ませてやりたいんで」
「え、でも事情聴取とかあるでしょう、俺は全然」
「そうだな、生憎送るまで人手を割けんので、貴殿にお願いしたいがよろしいか?」
「はいはい」
クルセイダーの言葉はまるっきり無視され、ローグと分隊長の間で話は進んでいった。
「明日午後にでもこちらに来て頂きたい」
「はい、了解しました」
それでもかしこまって頼まれれば頷かないわけにはいかず、クルセイダーは姿勢だけは伸ばして返事をした。白ポーションと、少しずつかけたヒールの効果で立ち直りつつある体を立たせる。ローグがさりげなくそれを支えた。

外に出ると、まだ夜は明けていなかった。冷たい空気に小さく息を吐く。
先程まで連絡やらなにやらで忙しかったローグも、今はクルセイダーを支えながら道を歩くのに専念している。
「……ありがとうです」
「ん? 俺はたいしたことしてないよ」
「いえ、それだけではなく」
クルセイダーは冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。澱んだ空気を入れ換えてしまいたかった。
「ありがとうでした」
昔のあなたに。
ローグはよくわからないと言った顔で首をひねっていたが、どうも、としまらない返事を最終的に返した。



おまけ


一つのドアの前で、壁に寄りかかってプリーストがそのドアを睨んでいた。やがてそのドアノブが回り、一人のローグが姿を現す。
「……眠ったよ」
「そう」
プリーストに表情はない。
「言われた通り、あんたは教会に詰めてるって言っといた」
「そう」
「まあ、知られたくないだろうからな」
「そう」
「……会話する気、あるか?」
「ない」
すっぱりと切り捨てられ、ローグは頭をかいた。
「戻る」
常になく口数が少ないプリーストを、ローグはリビングまで追いかけた。
「今回の捜査の担当を回してもらってね」
さっきまで数人がいたリビングに人気はなく、ランプは消されている。走り回っていた者たちも、ここで待っていた者たちも、家人はみな眠りについていた。
ようやくプリーストがまともに口を開く。
「……人間、やったことと同じことをされるのが刑罰の本質ってものじゃない?」
「さーな」
ローグはわざと明言を避けた。
「あんなんじゃ売れないだろうけど、そういう趣味の人も囚人には結構いるし……それに、ほら」
暗いリビングでプリーストは振り返った。薄い笑みがその唇に浮かんでいるのを、ローグは見なかったことにしたくなった。
「バラバラなら売れるでしょ」
それがどういう意味かを、ローグは聞かなかった。










ヤンデレについて


「……やんでれ?」
初めて聞きましたと言わんばかりに、クルセイダーは目をぱちくりさせた。
「ああ、なんか最近流行ってるらしい」
リビングで寝っ転がってどこから拾ってきたのかもわからない雑誌を読んでいるローグは、誌面から目を離さないまま言葉を続ける。
「好きなあまり相手とか相手の恋人とかを殺しちゃったり監禁しちゃったりする子のことを言うらしいぞ、やー恐いね」
お前も気をつけろよ、と皿洗いを済ませて台所から戻ってきたクルセイダーに話しかける。前掛けを外してタオルで手を拭いていたクルセイダーは、しかし首を傾げた。
「でも不思議ですね」
「あ?」
「どうして好きな人を殺してしまったりするんでしょう?」
心から疑問に思っている様子で、はっきり言って自分もその「ヤンデレ」の方々の気持ちがわからないローグはどう言葉を返すべきか戸惑った。ローグは好きな人は生きて動いていた方が嬉しいし、別にその恋人を殺したからといってその人が手に入るとは限らないなら無駄な労力は使いたくない。
「さあ……あ、あれじゃないか、殺せば自分だけのものになってくれるとかさ」
結局適当に答えたローグは雑誌をその辺の床に放り投げた。しかし投げてから、後で怒られることに気が付いて椅子の上に置き直す。ほっぽっているという点では変わらないのだが、ローグの中ではそれでいいらしい。
「それがわからないんですが……」
クルセイダーは真剣に考えているようだった。おいおい、こんな適当な話題にそこまで…と言いかけて、ローグは突然身を起こした。
「だって死んだらとられてしまうじゃないですか」
ごく普通の顔で、今日の夕飯はお肉で良いでしょうかと言い出しそうな顔で、クルセイダーはそんなことを言った。ローグはここに来て、相手と自分の感じ方に差があることに気が付いたのだった。
相手の腰帯に引っかけられている一つの印が、嘲笑うかのように瞬いた錯覚すらする。
「死は中途点でしかないのに」
死の、先を。ヴァルハラを垣間見たことのある戦士は、笑顔を消した。
「俺は、いやですね」
なんのために印を追い求めたのか、クルセイダーが口にしたことはない。彼のことだ、冒険家の頼みを聞いただけかも知れないが、なにか別の理由があるようにも思えてならなかった。
「今、この場所と、あの人たちが好きですから」
上半身だけを起こした状態のローグは、やめろと制止することもできずただ相手を見上げるしかなかった。穏やかな夜の色だと、そう思っていた黒い瞳が、今はただ、深く。
「……あの人を迎えに来るようなものがいれば、たとえそれが死を呼ぶ神であろうとも、鎌持つ戦乙女であろうとも

 ――俺が、斬ります」

そうして今は剣を帯びていない腰に手をやったクルセイダーは、いつものように笑った。困ったように、遠慮するように。
「あ、でもあの人には内緒ですよ、きっと余計なことをするなと怒られてしまいますから」
「……そうだな、そうするよ」
ローグは辛うじてそう口にすることができた。いつの間にか握りしめていた手のひらに、じっとりとねばつく汗をかいていた。










こんなに月がきれいな夜に


自室で静かに正座して、クルセイダーは一振りの剣を手入れしていた。時折持ち上げて確認しながら、砥石と布を往復させていく。装備の手入れは日課になっていて、部屋の隅には鎧一式と盾が綺麗に磨かれて置いてある。それから数振りの剣が立てかけて。夜の稽古は終わっているので、この剣の手入れが終われば後は眠るだけだった。
ちょっと傾けると、きらりとランプの光を返して刃が光る。仕上がりに満足して、鞘に収めようとすると、手元が狂った。
「あ……」
ぴっ、と左手の甲に筋が走り、みるみる赤い粒がにじみ出てくる。まじまじと切り口を見つめ、切れ味は上々だとクルセイダーは一人納得した。
普段、他の部分なら傷だらけのクルセイダーだが、左手の甲を怪我することはあまりない。手甲で守られている部分であるし、盾の持ち手を握る手だからだ。
放っておけば治るだろうと眠気が混じった思考が判断する。冒険者ならば、どんなにひ弱な者であっても一般人とは比べものにならないほど体力・負傷の治りが早い。それもクルセイダーのような、剣士系であれば尚更だ。本来なら小さな傷も甘く見てはいけないのだが、自分の身体の快復力を知っていると無頓着にもなる。
血はそろそろ手の甲から流れ出すだろうか。
ずっとその傷口を見ていたクルセイダーは、ふいに笑った。
子供がおもちゃを見つけたときのような、そんな笑顔だった。
そっと手を口元に近づけて、滴る赤い雫に舌を這わせる。傷口に触れないように薄く柔らかく、それから傷口を唇に含んだ。傷口を抉るほど深く、舌を動かす。それは愛撫に似ていた。
唇を離す。血は止まっていた。明日になればこの傷も、あったことがわからなくなる程度に薄まっているだろう。
それでいい。人に見られたら心配されるだろう。しかし例えば、クルセイダーの密かな思い人は心配するのだろうか。
「それは……ちょっと違うな……」
クルセイダーは一人首を傾げた。どうにも想像ができない。むしろ心配された方が自分は答えに詰まるだろう。それでいい。
剣先に引っかかった血を拭い、今度こそその凶器は鞘に収まった。ゆっくり立ち上がり、その一本は枕元に置いて灯りを消す。
部屋が暗くなると同時に、クルセイダーは空を見上げた。
月が出ているのを、初めて知った。










変化


久しぶりに、顔を見た。ローグは廊下で出会ったクルセイダーに声をかけた。向こうも笑って、挨拶を返してくる。
どこかから帰ってきたところらしい、少しばかり全体的にくたびれている。
半身ずつ譲り合いながら狭い廊下を行き違おうとしたところで、気が付いた。
「お、背が伸びたな」
目線が近かった。二人して立ち止まる。
「本当ですか?」
思いの外嬉しそうにはにかみながらクルセイダーが尋ねる。うん、とローグは頷いた。
「顔が近くなってる。もっと伸びると良いな」
「そうですね、もうちょっと欲しいです」
割と切実そうなクルセイダーの目にふと視線が行った。黒い瞳に、黒曜石のような輝きはない。絵の具の原色を全てごちゃ混ぜにしたような、夜を引き延ばしてから凝縮したような、優しい目つきにそぐわない色をしている。
「……お前は変わっていくな」
「え?」
ローグに変化は訪れない。
「俺は変わらない。変われないのかな……変わりたくないんだろうな」
ため息のような台詞だった。クルセイダーは言葉を見失って、軽く首を振る。
「俺は、あなたの代わりはできません」
「……俺にも、お前の代わりは無理だ」
誰の代わりでもない。だがそれが、遥かな悩みの渦へと突き落とす。鮮やかな自己否定と曖昧な自己肯定が、軽やかに手を取って踊り出し自己暗示を形作る。
「俺は……変わらないものの方が、好ましく思えます」
ローグはクルセイダーの顔を見ている。クルセイダーは目を逸らさない。瞳の奥に微かに燃える、情欲の炎が闇の中に温度をもたらしている。
「一つ聞きたいことがあったんだ」
ローグは笑わない。クルセイダーの表情が、少しずつ硬質さを増していく。他の誰にも見せない態度だった。
変わらないものが欲しい。
「お前は、変わらないからあの人を選んだのか?」
ゆるやかに問いかける。言葉は苛烈だというのに、口調がそれを否定する。剥離している。
「もしそうなら、俺はゆるさないよ」
「……どうしてですか?」
クルセイダーが俯いた。さらりさらりと、絹糸に似た髪がその顔を隠すように落ちる。
「お前もあの人も、俺のともだちだからだ」
向こうはそうは思っていないだろうが、とつけ加える。クルセイダーの片恋に、ローグが口を挟んだのはこれが初めてのことだった。
クルセイダーの口元が弧を描く。
「……安心してください、始めから期待はしていないんです」
質問には答えなかった。
「恋をしたのは初めてでした。だからきっと、この想いは俺と一緒に終わるのでしょう」
真っ先に思い出されるのは彼の人の手だ。鬱陶しげに髪をかき上げる手の動き、青い媒介を取り出す指先、杖を持った時の手の節。グラスの縁を撫でるあの指を、初めて欲しいと思った。
「……だってほら、初恋は実らないものなんでしょう?」
始めから実を付ける予定のない花。明けることのない夜。止まない雨。迷い込んでしまったら出ることのできないラビリンス。その真ん中で、クルセイダーは座り込んでいる。
不思議と、彼と幸せになりたいとは思わなかった。幸せになってくれるなら嬉しいが、相手は自分でなくていい。優しい言葉も、暖かい眼差しも、自分を振り向く背中も、何もかもいらない。
おわらないこいをした。かわらないこいをした。かなわないこいをした。
乾いた泉が生物が近寄れない水を湛えているように、クルセイダーには見えている。微かな思い込みと、現状を狂わす恋心。
「……最初の恋を忘れていることにしてしまえば、それが二度目の恋だ」
ローグは無駄だと知りながら、そう言った。クルセイダーはきょとんとして、
「二度目の恋なら、かなうんですか?」
そんなことがあるはずないじゃないですか、と言いたげに、笑った。
背筋が冷える。得体の知れない生き物を見ている感覚。確かに目の前にいるのは、ノービスの頃から知っているクルセイダーだというのに。
どうしてこうなった? 柔らかすぎた青年は、どこで間違えた?
かつての性質はそのままに、あたたかい笑顔も優しい眼差しも穏やかな声も損なわれていないのに、どうしてか狂気だけが入り込んだ。
ゆるやかに、その指先から、彼はとらわれていく。病んでいく。
ローグは知っている。変化を恐れる己の性質を、変化が時に恐怖になることを、知っている。
己が引きずられる前にと、ローグはクルセイダーの前髪を軽く撫でた。クルセイダーはくすぐったそうに笑って、話していたことなど忘れたように、どうしたんですかと穏やかに聞いた。










髪型


風呂から出てきたクルセイダーが、存外に大雑把な手つきで髪の毛を拭いているのを見て、ああ面倒そうだなとローグはぼんやりと思った。あまり自分の意思で髪の毛を伸ばした体験のないローグは、特にここ数年はずっと短髪で揃えているのであまり意識して乾燥させる必要がない。夏などは洗った後放置でもいいぐらいだ。
「……髪、切らないのか?」
そもそも何故クルセイダーがポニーテールを貫いているのかもローグは知らなかった。部屋着を身につけてタオルをかぶっている状態のクルセイダーは、自分が問われていることに気が付いてローグを見た。
「あまり考えたことがないです」
タオルの上から髪を挟んでぽんぽんと叩く。その手つきは慣れているが、聞いてみれば幼少からあまりヘアスタイルを変えたことがないのだという。
「昔は似合うと言われたのが嬉しかった記憶がありますが」
言ったのは十中十で彼の兄であろう。そう指摘すると、どうしてわかったんですかと驚かれた。どうして驚くのかということを逆に聞きたい。
「たまには気分転換になるんじゃないか、結構邪魔になる時もあるだろ」
木の枝などに引っかけてしまって難儀している様も見たことがあるローグは、親切心からそう勧めた。だが帰ってきた答えを聞いて、それはもう心底後悔するハメになる。
「はあ……そうなんですけど、長い方が防御力が高い気がしませんか」
「……はい?」
「ほら、髪の毛一筋の差、とか言うじゃないですか。案外髪の毛って丈夫ですし、俺みたいに束ねてあると後ろから切られた時とか首の防御に一役かってくれると思いますし……」
ローグは流石に、自分の髪型をそういう理由で決めている人間を初めて見た。なんだそれは。同じく長髪である騎士なら、趣味だときっぱり言ってくれるであろうに、よりによってなんだそれは。
「あ、リーさんも伸ばしてみたらいかがでしょう? きっといざというときに役に立ちますよ!」
そんないざというときはまず来ない、と思いながらも口に出せないローグは、この髪型の方が楽だからとその提案を断った。額の防御が薄いように思えて心配です、と真剣に言われたので、狩りの時は唾のある帽子か額当てを装備することを約束させられた。
あの、最初に会った時のノービスはどこに行ってしまったんだろう、とローグは打ちのめされた気分になってテーブルに突っ伏したのだった。