雨に打たれて


昼寝から目覚めたローグは、水を飲もうと台所に向かう途中で立ち止まった。
窓の外に、同居人のクルセイダーが立っているのを見つけたからだ。
いやに暗いと思っていたら外は雨が降っていて、二、三日前にしばらく留守にしますと言っていたクルセイダーは旅装も解かないまま、何をするでもなく突っ立っている。
空を見上げるでも地面を見下ろすでもなく、手の中のなにかを見つめ続けているのが奇妙だった。
どこへ行っていたのだったか、と焦ることもなく汲み置きの水を飲んで、少し頭がすっきりしたローグは思い出した。ニブルヘイムへ行く、と言っていたのだった。
どっかの考古学者がどうとかという話も、夕飯の傍らで聞いたかも知れない。
ローグは寝乱れたこげ茶の短髪を、ぐしゃぐしゃとかき回した。
なにかあったのだろう、そういうときは一人でいた方がうんと楽な時もある。ローグも、雨さえ降っていなければ数十分でも数時間でも放っておいただろう。だが、天候が問題だった。
いくら体を鍛えているとはいえ、あのままでは確実に風邪を引く。武具などが傷んだりもするかもしれない。それになにより、放っておいたと知れば数日不在のあの馬鹿兄がうるさいだろうことは目に見えている。
運悪く、こんな日に限ってみな出払っている。
いや一人残っていたか、とローグは階段を上がったところにある天井の穴から天井裏を覗き込んだ。元から開いていた穴を人が使うようになった結果、ここにははしごがかけられている。三段ほど上れば、天井裏を覗き込めるのだ。
案の定、忍者が大人しく瞑想をしているように見せかけて寝ている。
「ロダン!」
少々でかい声で起こすと、びくっと少し跳ね上がってからきょろきょろと辺りを見回し、ようやくローグの方を見た。まだまだ幼さの残る寝起き顔が、ぼんやりとローグを見やる。
「な、なんでありまするか?」
「寝てるとこ悪い、風呂湧かしてやってくれねーか」
「了解にあります」
何が楽しいのかわからないが、この忍者はあの兄弟を主と仰いでいる。居候を始めた日からは、ローグたちのことも先輩と慕っている。慕われるのは良いが、この喋り方はどうにかならないものかと考えているのは内緒である。
ローグがはしごを下りると、忍者はすい、と霞のように――姿を消せるわけもなく、はしごを下りた。一階に行ったのを見計らって、ローグもまた階段を下りた。
まだ眠いのか、大きなあくびを一つ。
春も終わりとはいえ、雨が降っていれば外は寒いだろうかと考えながらも、上着を羽織るでもなく勝手口の扉を開けた。幕が掛かっているように不鮮明だった雨の音が、急に耳についた。


「おーい、風邪引くぞー」
呑気な調子で声をかければ、クルセイダーはゆっくりとこちらを見た。
手に持ったものは、にぶく光を放っている。その光を、ローグは見たことがあった。
友人が持っているのを見たことがある、あれは来るべき時に天に昇るための通行証のようなものだった。選ばれたというよりは、認められた証。あれの試練を受けていたのか、とローグは思ったが、口には出さなかった。内心先を越されたなと思っていることもおくびにも出さない。
「あ……そうですね、雨が」
今気がついたと言わんばかりに、クルセイダーはかぶっていた探偵帽を外した。大分水を吸って重くなっているそれを軽く振ると、丁寧に荷物袋にしまう。友人たちを巻き込みまくってタムランを倒しまくった産物であるそれは、ローグからクルセイダーへの転職祝いだった。
そして同時に、手の中にずっと持っていたものもしまう。
ざああああ、と雨は遠慮無く大地を濡らしている。水たまりが出来るほどではないが、小雨とも言えない降りだ。
「頼むよー、お前が体調崩したら俺アシュに殺されるって」
青い髪のプリーストが、頭の中で微笑んでいる。尤も、笑っているのがデフォ顔なのだが。
「そんなことはないかと……」
弟の前では猫被りまくっているからだ、と滑ろうとした口を押さえる。
だが、代わりにクルセイダーの口から出た言葉は、ローグの想像の遥か斜め上だった。
「多分、俺は兄に嫌われていますから」
「…………へ?」
ローグは絶句した。
あのどうしようもなく兄馬鹿で特大のブラコンで、どこか兄弟以上の愛情に溢れまくっているあの男がクルセイダーを嫌うことなど、それこそポリンが深淵の騎士を倒すよりありえないだろう。
むしろクルセイダーの方が嫌になりそうなものなのだが、そうではないことは今の台詞を言った時の表情が証明している。どうにも信じがたいことに、クルセイダーは兄に対して尊敬の念を抱いているようなのだ。
「いや……それはないぜ、絶対。」
心から主張しても、クルセイダーは首をゆるく横に振った。
「俺がいなければ、兄はもっと楽に生きていけたはずだった……目の上のたんこぶ、ってやつです」
そう言って、少し困ったように笑う。
恐らくそんなことを兄本人が聞いたら、腹の底からありとあらゆる語彙を駆使して誤解を解こうと懸命にまくしたてることだろう。挙げ句の果てにわざわざ実家から持ってきたらしいアルバムを持ち出して思い出話まで始めるかも知れない。1〜38巻、以下続刊のアルバムを一枚一枚説明付きで見せられそうになったときは、ローグは徹底的に逃げたことを覚えている。
んなことない、ともう一度言うのは簡単だったが、他人の考えなど簡単に変えられるものではないとローグは諦めた。専門用語で、厄介事から逃げたともいう。
そんな日もあるものだ、とローグは思う。
なにか一つのきっかけから、坂道を転げ落ちるように全てを悪い方へと考えてしまう日が。普段は気にしていないようなことでも、ちくちくと心を刺すトゲへと変わっていく。
生憎とローグは、そんな状態の人間にかける言葉を持っていなかった。
人と関わるのは好きだが、誰かのパーソナルスペースに踏み込むのを極端に恐れる男なのだ。
「まー、風呂に入って飯食えよ、疲れてんだろ?」
「はい、まあ」
帽子の庇がなくなり、直接雨粒を受けた睫毛から、水滴が垂れた。
泣いていたのだろうかとローグは考えたが、確かめるほど野暮ではない。
「昨夜のシチューが残ってたかなー」
新しく気の利いた料理を作ってやるようなことはできそうになかったので、早々に諦める。昨夜は数人不在とのことで、料理係の一人であるバードは適当に手を抜いて、大鍋にシチューをどんとこしらえたのだった。おかわりは自由だが、シチュー以外は一切なし、ついでに今日の朝食も昼食もシチューオンリーというのはなかなかヘヴィであった。
クルセイダーの用事はもう二、三日かかるかと見てふらりと消えたプリーストの分はいらないとして、シチューも後二杯ほどでなくなるだろう。バードが帰ってきたらきっと食料買い出しに行かせられるなと考えながら、ローグは勝手口に戻るためクルセイダーに背を向けた。
無理に引っ張ってこなくても、ついてくることは知っている。
だから、後ろから小さくありがとうございますと聞こえてきたのを、ローグは雨音で聞こえなかったことにした。



End.



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