旅立ちの日
「父上!」
ノックもせずに飛び込んだ俺に、書斎の椅子に座ったままの父は顔を上げて呆れた顔をした。
「行儀が悪い」
「そのようなことを言っている場合ですか!」
つかつかと歩み寄って激情のままに文机を叩くと、顔の横に髪が落ちてくる。父の髪より少々濃い色をした青い髪は、それでも脈々とした血のつながりを思わせた。
父は、いつも通りに何事にも関心のなさそうな顔をしている。
それが妙に腹立たしかった。
「……跡継ぎの件をお聞きしました」
「誰に聞いた?」
「そのことは関係ありません」
俺の家柄は少しだけ由緒正しいものだ、というのは知っている。大きな屋敷、重厚な家具、食べるに困ったことはない生活、数人の使用人。
家の中の誰かから今回の話を聞いたわけではない。時折家に、というよりは父と母に顔を見せに来る祖父に聞いたのだが、出自が関係してくるわけがない。
「何故、俺が跡継ぎなのですか」
「そうするに値すると儂が認めたからだ」
「兄さんがいるのに、ですか!?」
父はこんな話の最中でも手に読みかけの書物を持ったままだ。
俺には兄が一人と、妹が一人いる。
しかし、兄と俺では母が違う。
有り体に言ってしまえば、父の愛人の子が兄なのだ。
俺の母は体が少々弱く、結婚した当初は子がなかなかできなかったらしい。そんな時に父がしたことは母の健康を願うことではなく、外に子を作ることだった。その子である兄と、兄の母である女性はそのまま屋敷に住んだ。自分の夫婦観からすればよく分からないことではあるけど、俺の母と兄の母が仲が良い、というのは幼い頃からずっと知っている。それは今でも変わらず、下手をすれば父より母親同士の方が仲が良いのでは思ったりもするけれど、また別の話だ。
そして兄が産まれて7年後に、俺が産まれた。
その3年後には俺の母から妹が産まれた。
でも、物心ついた時にはすでに兄がいた俺は、家は彼が継ぐものだとばかり思って生きてきた。父も母も止めなかったのをいいことに、少しずつだけど剣技を習ったりもして、いずれは冒険者になって世界を巡りたいと漠然と考えるようになっていた。
それを、いきなり跡継ぎおめでとう、なんて声をかけられて凄く驚いた。
そもそも家がどんな風に生計を立てているかも詳しくは知らないのに、そんなことができるはずもない。大体、俺が家を継いでしまったら、兄さんはどうなるのだろう?
「あれより、お前の方が血統が良い」
――一瞬、何を言われたのか全く分からなかった。
そうして到達した言葉に、かっと顔の血が沸騰するのが分かった。
「そんな……理由で……!」
母の家は昔、国に貢献したとかでそれなりに位の高い貴族だ。兄の母は美しく活発な女性だったが、元は冒険者で身よりもない、と教えて頂いたことがある。
けれど、そんな下らない理由で、人の人生が左右されるのかと思ったら無性に腹が立った。兄の方がずっと頭の回転は速いし、なにより俺は人の上に立つなんてことは向いていない。
それに、俺が跡継ぎなんてことになったら兄と彼の母はどうなってしまうのかわかったものじゃない。彼らからしてみれば鬱陶しい存在だったはずの俺をずっとかわいがってくれたんだ。
俺のせいで彼らの居場所が無くなってしまうなんて、そんなことはごめんだった。
「父上」
父はこちらを見てはいたが、俺のことなど見てはいなかった。彼が見ているのは、俺に流れる母と自分の血だけなのだろう。それなりに尊敬はしていたが、温かなものをもらったことはなかった。
「俺はこの家を出ます」
「……なんだと?」
どうせいつかは、と思っていたんだ。もしかしたら、少し遅いぐらいかもしれない。
「冒険者になって、そこで生きて死にます」
父の顔は見なかった。
ただそう言って、踵を返して早足で書斎を出ていく。分厚いドアを閉める寸前、何か声が聞こえたような気がしたけど、聞こえなかったことにした。
家を出るなら早いほうがいいと、自室に戻って旅支度をした。
と言っても、ああ見栄を張った以上家のものに頼り切るわけにはいかない。ちまちまと近くの町でバイトをして貯めたお金は、まあなんとか登録所までの路銀にはなってくれるだろう。家名もこの際捨ててしまおう。確か、冒険者登録は本名でなくても良かったはずだ。
机に向かってお金を数えていると、背後でドアが開く音がした。
「お兄ちゃん、行くのね?」
振り返ると、ドアにもたれるように寄りかかっていたのは妹だった。彼女の髪はふわふわと淡い水色をしていた。本当に母によく似ていて、2、3年経てばもっと綺麗になると兄と彼の母が揃って誉めている子だ。尤も、中身は実の母よりも兄の母に似ているけど。
「うん、ごめんね」
荷物なんて少ないものだ。家のものは全部置いていこうかと思ったけど、服や靴までは置いていけない。本当に家の加護で過ごしていたのだと思うと少し自分が情けなくなる。でも、冒険者の第一歩であるノービスになれれば支給の制服が与えられるというのが救いだった。
後を任せてしまうことになる妹に謝って、近くまで歩いていった。ああ、少し背が伸びてる。
「あやまることないわよ、わたしは楽してくらすから」
妹は俺よりよっぽどしっかりしてることを思い出した。ふわふわの頭を撫でると、もう子どもじゃないのよ、と軽く睨まれて。
「たくさん、おもしろいことを見てくるんでしょう?」
日頃から言っていたことを、彼女はすっかり覚えてしまっていた。
「うん、いつか話してあげる」
この屋敷以外でだけど、という言葉は飲み込んで、それでも彼女は全て分かっているかのように頷いた。
「兄さんにはないしょにしておいた方がいいわよ」
「ああ……そうか、そうだね、気を遣わせてしまうかも」
兄さん、と俺たちが呼ぶのが、俺の兄だ。確かに、俺が兄のために家を出たと誤解させては、彼らに余計な気を遣わせてしまうだろう。それだけじゃないんだけどねえ、と妹が少し疲れたように言った。
「それじゃ、行ってくるよ」
「ええ、いってらっしゃい」
妹は部屋の前で小さな手をひらひら振って、それで終わりだった。
玄関に向かって廊下を歩いていくと、背中から声がかかった。
優しい、母の声だと知って振り返ると、慌てた顔で母が走ってくる。
「走っちゃだめです」
母以上に慌てて俺が言うと、その場で立ち止まった。二、三歩母に近づく。
「行ってしまうの?」
「……はい、ごめんなさい母さん」
母は綺麗な顔を悲しそうな色でいっぱいにしていた。
不徳な息子で、ごめんなさい。
「気をつけるのよ」
意外なことに、母は俺を止めなかった。
ただ淡い目の色で、俺を見てくれた。
「母さんも、いつまでもお元気で」
深々と頭を下げる。その直前に、廊下の角から兄の母が飛び出してきたのも知っていた。彼女は、俺のもう一人の母親だった。
二人に向けた言葉にきっと気が付いていて、兄の母はひらひらと手を振った。その仕草が妹そっくりで、思わず笑い出しそうになる。
「行ってきます」
そうして俺は、産まれ育った家を飛び出した。
End.
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