恋は思案の外



 最近、同級生の様子がおかしいと富松作兵衛は考えている。それもただの同級生ではない、同室の一人にして親友の、決断力のある方向音痴の方、神崎左門である。
 左門の何が変かというと、時折宙を睨むようにして考え事をすることが多くなったのだ。あの左門が、だ。決断を美徳とし、思い悩むぐらいなら笑い飛ばすそんな左門が、悩み事を抱えている、これは大変な事態であるように作兵衛には思えた。
 しかしながら、他の親友に相談してもお得意の妄想なんじゃないか、考えすぎだ左門だって人の子なんだぞ、たまには悩まないとどんどん反射で生きる生き物になっちゃうだろう、となかなかに己のみならず左門に対してもひどい言葉を返されてしまった。当然、反論はしておいたのだが、どうにも作兵衛には納得がいかない。
 もう一人の同室と同じぐらいには、作兵衛と左門とは親しいはずだった。何せ、彼が迷子になったときに真っ先に探しに行くのが入学してからというもの作兵衛の仕事だったし、そのせいでついつい口うるさくなってしまうことは否めないが疎まれた覚えもない。悩んでいるなら相談してくれてもいいんじゃないかと思うのは甘えだろうかと考えると、自分から口に出すこともできない。大したことが無くとも、作兵衛が落ち込んだときや考え込んでいるときに声をかけてくれるのは左門だったから、自分もそれ相応のお返しはしたいと思っている。
 が、相手が口を割らないようでは、そして自分が聞く勇気もないようではどうしようもない。
 どうしようもない、と言いたい言葉の代わりにため息を吐き出してから、五日が経っていた。

 いつものように、作兵衛は左門を会計室まで連れて行っている途中だった。自分も委員会がある日はもっと急ぐのだが、今日は用具委員会の活動は予定されていなかった。そのため、いつもは急かす道中も少しばかり余裕がある。会計委員会は月末に向けて帳簿の調整をしているところで、こちらもあまり切羽詰まってはいないらしく、左門はここのところ毎日早めに長屋に戻ってきては爆睡している。今日も早く帰れるぞ、などと言いながらにこにこしていたはずの左門が、ぴたりと立ち止まった。
 どうした、と声をかける前に、人気が急に無くなったことに気付く。左門を捜していて役に立つことは、追跡能力の上昇だとか山道の歩き方だとかとにかく色々あるけれど、こうした近道を見つけることが学園生活においてはかなり有用だ。とんでもない道を歩いてびっくりする場所に辿り着くのだから、たまに昼寝中の先輩などに出くわして仰天する。大概が、良く見つけたなと褒められるものだから、迷子というやつはすごい。遠くから、一年生がグラウンドではしゃいでいる声が聞こえた。先輩や先生の怒鳴り声は、まだ何も聞こえない。
「どうした、遅れるぞ」
 会計の集まりに遅刻なんぞしようものなら、決算が詰まりに詰まってどうしようもない状態で無い限り会計委員長による鍛錬が始まるのだと当の左門がよく漏らしている。現に作兵衛も、左門の後輩に拝み倒される勢いで頼まれているのだ。後生ですから、委員会が始まる前に神崎先輩を連れてきてください、と。
 作兵衛も後輩には弱い。委員会でも世話を焼くことの方が多いし、まだ一年生である彼らをあまり過酷な状況に放り込むのは作兵衛の望むところではなかった。
「……左門?」
 右手には土塀があり、左手には林が広がっているだけの、よくある忍術学園の一風景だ。その中で、俯いた左門と戸惑った自分だけが異質で、作兵衛は焦れた。
 返事をしろ、と思う一方で、顔を上げるなとも思った、それは一種の直感だったのかも知れない。
「作兵衛」
 ゆっくりと上がった、その顔に、作兵衛は怯んだ。
 おおよそ長い付き合いでも見たことのない程に、真剣な左門がそこにいた。どうにも難しい筆記試験の最中でも、苦手とする山中移動の実技授業に挑むときでも、先輩を前に報告している間でも見たことのない、作兵衛の知らない左門がそこにいた。
「作兵衛、少しだけ、僕の話を聞いてはくれないか」
 そんな前置きなどされたことはない。作兵衛は押されて黙ったまま、ただ一つ頷いた。
 例えば、明日死ぬのだと言われれば信じてしまいそうで、それに対して半狂乱になって学園中を駆けずり回る自分の姿まで容易に想像できた。それでなくとも学園を辞めるだとか委員会から逃げ出すだとか負の想像しか浮かばず、作兵衛の心臓は鼓動に逸った。

「作兵衛、好きだ」

 だから、その時ぽかんと思考を飛ばしてしまったのは己のせいではないと作兵衛は声を大にして主張したかった。左門は視線を逸らさない。髪の毛に似た真っ直ぐな視線が、作兵衛を追いかけて離さなかった。
「好きだ。僕の辿り着く先はいつだって作兵衛が良いし、作兵衛の追いかける相手はいつだって僕が良い。……作兵衛、」
 方向音痴の手が、このときばかりは違えずに作兵衛の手を取る。指先がつめたくて、ああこいつは緊張しているのか、と作兵衛は回らない頭で事実だけを捉えた。
「僕と生きてくれ」
 笑った、顔が、衝撃と共に作兵衛の脳裏に焼き付いた。
 笑い顔など見慣れている、素でいつも笑っているような相手だ。快活に笑い、楽しそうに笑い、嬉しそうに笑う。美味しそうに笑い、めでたくて笑い、感謝に笑う。つられて笑顔になってしまうことも多い、誰かのそばで笑っていることが多い、そんな男だ。
 こんなに目ばかり光らせて、挑戦的に笑う左門を、作兵衛は知らなかった。
「さも、ん」
 掴まれた手に力がこもって、押し出されるように作兵衛が口にしたのは相手の名前だった。それだけで、ただそれだけで、左門の顔に喜色が差す。振りほどこうと思えば払える手を、作兵衛は払う気がしなかった。じわりと染みるつめたさは、やがて作兵衛の全身を覆う血液によってあたためられていく。耳の下でどくどくと熱く鳴っているものが、血の流れる音だと作兵衛は知っていた。耳の奥と喉のとば口に、空気の塊が詰まってしまって取り出せない。
 なにかを言わなければならないのはわかっていた。だが、なにを? 作兵衛の中に該当する言葉はなかった。存在しない言葉は捻り出せない、作兵衛はただ左門を見ていた。左門もまた、口を閉じたまま作兵衛を窺っている。目線がふわりと和らいだ。
 ぱ、と離された手を、追いそうになるのは本能だ。左門を離してはいけないと、作兵衛は本能に刻み込んでいる。
「賭けをしよう、作兵衛」
 捕まらないように両手を後ろ手に組んでしまった左門は、一変してこんなことを言い出した。口元は笑っているが、目ばかりが未だに作兵衛の知らない色を映している。
「僕はこれから委員会に行かなければならない、あまりにも遅かったら誰かが捜しに来るだろう。作兵衛の方が早く見つけられたら僕の勝ち、先輩方に先に見つかってしまったら僕の負けだ」
「……捜しにこいってか」
「好きにしていいぞ!」
 からからと笑う、そればかりが常の動作で作兵衛は少し安堵する。つめたさが少しだけ残る指先を隠すように、ぎゅっと握りしめた。
「それ、俺の勝ち負けはどうなるんだよ」
 賭け事は好きではないが、勝敗がはっきりしないことには気分が悪い。作兵衛の言葉に、左門はそれはそれは嬉しそうな顔をした。あの顔は知っている。どこで見たかは忘れてしまった。
「作兵衛が決めていい」
 僕の勝ち負けは僕が決めたのだから、と言う左門は一見して筋が通っているようで、実際さっぱり通っていない。どうしろというのだと問うよりも先に、左門はあっさりと作兵衛から視線を外して明後日の方向を見た。
「おい……!」
「じゃあ、また後でな!」
 会計室はあっちだ、と言って走り去っていく先にはどう見ても林しかなく、あいつは目も悪いんじゃないかと思ってしまった。結局後ろ姿を見送ってしまった作兵衛は、呆然と立ち尽くす。
 鼓動の速さだけが、左門と会話していたことの証のようなもので、相変わらず遠くから後輩たちの声は聞こえるし、誰かの失敗したような叫び声も聞こえる。だがその声すらしばらくの間耳には入っていなかったことに気がついて、作兵衛は短く二回息を吐いた。
「なんだってんだ……」
 ぐしゃりと前髪を潰す。左門が行ってしまったのだから追いかけないと、と促す本心を、戸惑う理性が邪魔をした。好きだと告げた左門の言葉がわんわんと頭を巡って、どうにも離れない。本人は作兵衛を一人置いて離れてしまったというのに、だ。そうだ、そもそも左門をひっつかまえてどういうことだと問い質してやらねばならない。委員会の前だとか人様に迷惑もかかるし、もしかしたらお前はそのことについてここ数日悩んでいて俺にまで心配をかけたんじゃないだろうなとか、人がいたらどうするつもりだったんだとか、どういう意図でそんなことを言い出したのだとか。
 左門を見つけて言いたいことだけを考えている自分に気がついて、作兵衛は呆れた。
 結局、作兵衛の手の中には追いかけるという選択肢しか残っていなかった。先輩たちに任せることも、自分で戻ることに期待して待つことも、作兵衛の性分ではなかった。追いかけた先で、何かしらの答えを求められても、それでもいいかと思った。
 左門が顔を上げたときの感情を、作兵衛は今更ながらに理解した。
 悔しかったのだ。
 親友であるという自負が、見たこともない左門の顔に揺り動かされた。知らないことなど、人間同士ならあって当たり前なのに、それを嫌だと瞬間に感じた。それを他の人に見せるところなど、想像もしたくない。ましてや、自分以外の人間に発見されて、あの笑顔をするところなど見たくない。
 左門を離すなと、決して離すなと、思ったのは迷子の防止のためだけではなかった。それは、得難い親友を渡したくないというような、独占欲に満ちた友情に限りなく近いものであったかもしれないが、作兵衛にとってはまだそれで良かった。難しいことなど論じられるほど年を重ねてはいない、わかっているのはあの目に見つめられると鼓動がどうしようもなく高鳴ることと、左門の振り向いた先に自分がいないことがたまらなく嫌だということだけだった。
 作兵衛が決めていい、と左門は言った。
 左門の負けは作兵衛の負けで、作兵衛の勝ちは左門の勝ちなのだから、まったく賭けも何もあったものではない。それを想定していたというなら腹が立つが、と作兵衛は気合いと共に両手で膝を打った。
「俺だって……」
 まだ明確に言葉にならないそれは、もしかしたらもうずっと、作兵衛の胸の中で育っていたものだったのかもしれない。とにかく、見つけて捕まえて、文句の一つも言ってやらねば気が済まない。左門の方が気付くのが早かっただけなのだからもう少し待て、と。
 ふん、と鼻から息を吐くと、耳の下を異様に循環していた血液は少し収まったようだった。
 さあてと作兵衛は慣れた目つきで林を睨む。どこかにあいつがいるのなら、そう思えば自然と足は方向を指し示す。
「進退は疑うなかれ、ってな!」
 左門の得意の台詞を呟いて、作兵衛は力強く地面を蹴った。
 どうせ会計委員会には揃って謝りに行くはめになるのだから、その前に少しでも早く左門を見つけたいと、作兵衛は背中も見えない相手を追いかける。
 辿り着くんでも、追いかけるのもまどろっこしい、と思う。
 隣にいて、たまに外れるから首根っこ引っつかんで引き留めて、たまに立ち止まったときに手を引いてくれればいい。
 いつか教えてやろうと心に決めて、作兵衛はたった一人を捜すためにその場を去っていった。




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