しんしんと、とこの風景を称した人間は誰だったのだろうか。
 ぺたりと座り込んだ左門の肩越しに冷え切った外を眺めながら、作兵衛はそんなことをぼんやりと考えていた。
 雪である。まごうことなく雪である。おまけに初雪であった。
 反射的に飛び出していこうとした左門を必死に制止したところ、彼なりの妥協案なのか木戸を細く開けてそこからずっと飽きることなく外ばかり見ている。本当なら寒い閉めろ、と言いたい作兵衛だったが、かといってこの中に薄着で走り出して行かれてもたまらない。そういえばと今気がついたが、左門は常の服装のままで何の防寒もしていなかった。
 屋根の下であっても、寒いものは寒い。会計委員長にでも見られればたるんどる、と怒鳴られかねないことではあったが、綿入れに仕立てた半纏を作兵衛は着用していた。凍えて指が動かなくなるのは御免だし、風邪を引いて数馬を初めとした保健委員会の面々に叱責を食らうのももっと御免だ。
「さーもん、上着ろ」
 話しかけても、左門は聞こえないかのように振り向かない。聞こえていないはずはなかった。何故だか降る雪が音を消してしまっているようで、長屋は大勢の忍たまがいるはずにも関わらず妙に静かだった。先程、冬に入ってから例年のごとく意気消沈している孫兵の部屋の方面から騒がしい声と物音が聞こえた気もしたが、それも途絶えてからしばらくが経っている。
 雪なんて毎年見ているじゃないか、と作兵衛は少しばかりむっとした。冷たい空気に身をさらしながら、人の言葉が聞こえなくなるぐらい夢中になることはないではないか――と考えて、それでも尚己の本心には行き着かない。くるりくるりと心や頭の中でばかり迷うのは作兵衛の専売特許であった。
 何がそんなに楽しいのか、と胸中でため息を吐きながら作兵衛は重い腰を上げた。左門が体調を崩すのは嫌なので、途中で押し入れに寄って目当ての物を引きずり出す。左門や三之助の持ち物の位置を、ともすれば本人よりも把握していることについての疑問を持つのはもうとうに止めていた。
「左門」
 再度呼びかけて、今度は隣に立って肩に手を置いた。
 一体何が、と思えるぐらいには作兵衛は雪が好きではなかった。妙に重さと質量を増し、雨のように流れていってはくれない雪は、用具委員会にとって厄介な代物だった。寒くなってくるとまずはすきま風の修繕に走り回り、それから雪の対策に追われる。今年の雪は遅かったから準備は出来ていたが、例えば重みでどこそこの屋根が抜けただとか、どこそこの戸が凍って開かないだとか、そういう用件がしょっちゅう用具には舞い込んでくる。今年はそこに恐らく小松田さんが滑って転んで目を回して道具をぶちまけただとかそういう事例も想像が出来ると用具委員会は前回の集会で重々しく対策を話し合ったのだ。おまけに目の前の迷子は二年とも、はしゃいで走り回って熱を出して寝込んでいる。
 寒いし、面倒だし、とはしゃぐ気になれない作兵衛は、しかし振り仰いだ左門の目を見て絶句した。
 常にないほどきらりきらりと澄んだ瞳に、ちらちらと白いものが混じっている、そんな錯覚さえも起きた。
 雪は、左門の視界でずっと降り続いていた。作兵衛からも見えていた。
 昨夜床についた時は確かに雨だったからか、部屋から見える範囲ではまだ積もってはいない。地面が濡れていて、触れた先から溶けて消えるのだ。だがそれすらも、少し見ただけでは不思議だった。白い、呆れるぐらいに白い丸いものが、空から絶え間なく落ちてくる。斜めに踊っているのではないかと思わせるほどには規則的な羅列を保って、しんしんと降り注ぐ。そうして地面に落ちて、消える。少しずつ、少しずつ形が残る物が現れて、塀の下や木の枝の上で、寄り集まって白を成していく。
「面白いぞ」
 何が楽しい、などと口にはしなかったはずなのに、左門は迷わずそう言い切った。口元には常の笑みで、作兵衛は赤面するのを堪えようと眉根を寄せた。
「……そうかよ、ほら着てろ。風邪引くぞ」
 ぶっきらぼうに返事をしてしまうのはしょうがない、左門も文句も言わず渡されたそれを着込む。暖かそうに緩んだ顔を見れたので、作兵衛はそんなに面白いならずっと見てろと思いながら踵を返した。
 部屋の奥に戻るつもりだった作兵衛の手が、ぱしりと引き留められる。
「なん、だよ?」
 厠にでも行きたいのか、と聞くよりも前に、左門は快活に笑った。
 作兵衛がそれに弱いと知っていてやっているのか定かではない分、恐ろしい。
「作兵衛も一緒に見よう」
「俺はいいよ、寒いし」
「そうすれば、風邪を引くときは一緒だぞ!」
 一緒に寝込もうと誘う相手にまた絶句させられる。
 お前そんなことを言って看病はどうするんだ、また数馬に怒られるし、三之助は例年のごとく雪中耐寒マラソンだ!とか言って引っ張って行かれたからどうせ今晩は医務室直行だろうし、今年の風邪の予習をしたいと言っていた藤内に観察されるのは必定だし、孫兵がふらっと山なんかに歩いて行っちまうのを止めてやれないし、委員長たちがなんて言うか……と延々と回る思考は、しかし一つも口から零れてきてはくれなかった。
 寒さだけが原因ではなく、上手いこと口が回らない。
 雪が、嫌いなわけではなかった。
 好きなところだってある。同級生と投げ合う雪玉だったり、昔の委員長が作ってくれた雪兎だったり、雪の下から見つけるふきのとう、馬鹿みたいに白いところや、やたらと静かになるところ。それから、それから――どこぞの迷子がつけた足跡が、そいつのところへ案内してくれる、ところだとか。
 繋いだ手があんまりにもぽわぽわと温かいものだから、ほだされてやってもいいかな、と作兵衛は思った。
 多分、並んで眺める雪景色は、部屋の奥から左門の後ろ頭ばかり見ていた時よりも好ましく映るだろう。
 そうしたら、左門にどの辺が好きなのか、どうして好きなのか尋ねたって良い。
「……わーったよ、風邪引いたらお前のせいな!」
「構わないぞ!」
 左門の隣に腰を下ろすと、板張りの床は冷たくて座布団でも持ってくれば良かったと少しばかり後悔した。それでも手を振りほどいてまで部屋の奥に戻る気は毛頭無くて、作兵衛は戸を静かに開けた。
 作兵衛と見たかったんだと肩を触れ合わせて笑う左門が、どうせしばらくしたら走り出してくる一年生につられて出て行ってしまうとしても、それを追っかけて結局二人で風邪を引いたとしても、まあいいかと思ってしまうぐらいには作兵衛は左門のことが大事だった。

 ――こうして二人でいるのなら、雪だって悪くない。




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