自室で図書室から借りてきた兵法の書を読み解く左門の右足には、ぬるい体温がくっついていた。ちらりとそちらを見れば、緩みきった顔をした作兵衛が、ちょうど腿の部分に額をこすりつけるようにして眠っている。
 雨が降ると、こうなるのだ。
 半分は暇つぶしのために読んでいた書を置いて、足を動かさないように軽く背筋を伸ばす。
 まだ長屋の外からはしとしとと雨音が響き、三之助は雨だというのに明日のランニングコースの確認があるとかで、滝夜叉丸に連行されていった。それを気の毒にと顔を見合わせて笑った時はまだ作兵衛の意識ははっきりしていた。
 雨が降るとどうにも眠くなるのだと、初めて彼が漏らしたのは一年の半ば頃だった。
 雨は気配も足音も消してくれる、忍者の味方なのにそんなことでいいのかと言えば、そのうち治すさ、と苦笑された覚えがある。そして、三年次の今に至るわけだ。
 野外の授業中だとか、出かけた先で突然に降られた時など、外にいる時は少なくとも左門が見ている範囲では眠り込んだりすることはない。だが自室にいて、休みの日だとか差し迫った提出物が無い日だとかになると、途端に眠そうに目をとろんとさせる。
 先日などはそれにつられたのか、左門が委員会から重い足を引きずって帰ってくると同室の三之助はおろか藤内や数馬、孫兵までもが部屋で転がって眠っていて仰天したものだ。
 恐ろしいことに、雷鳴が轟いていようとも雨が降ってさえいれば作兵衛がまず目を覚ますことはない。
 これでうっかり用具倉庫なんぞで眠り込まれてしまったらどうなるのかと左門は危惧しているのだが、委員会中は気を抜けないらしく帳面の確認をしていても眠たくはならないとのことだった。
 委員会、と考えて左門は少し嫌な気分になった。委員会活動自体は出番も増えるし、悪くはないと思っている。徹夜で帳簿を計算した挙げ句鍛錬で引きずり回されるのは勘弁願いたいが、会計委員の後輩はかわいいし先輩も、一応ちゃんと尊敬している。委員会自体はかまわない。
 だが、どうにも納得いかないのが作兵衛のことだ。用具委員会の活動はかなり多い。今日は用具の数の点検、明日は手裏剣の手入れ、明後日は壁の修理……と延々続いて休日に食い込むことさえある。そういう場合作兵衛は一年生を休ませてやりたいと思うらしく、せっせと委員長と共に活動に精を出している。
 今のところ用具には最年長の食満委員長と三年生の作兵衛、一年生が三人しかいないのだから作兵衛の張り切ることといったら。元々責任感が強いのだから、そういう状況に置かれては当然かもしれないとはわかっているのだが。
 眠る作兵衛を見下ろして、左門は似合わないため息を吐いた。
 委員会活動中は、左門や三之助が行方知れずになっても作兵衛は迎えには来ない。どうも彼の中で明確な領域があるらしく、左門が厠に行ったきり会計室に戻って来られなくても、三之助がランニング中にはぐれて裏々山に取り残されても、委員会活動終了までは手を出さない。
 尤も、用具の仕事が終わって会計・体育の活動も終わり、それでも二人が戻ってこない場合探しに来てくれるのだが。
 普段作兵衛に頼っているという自覚はある。左門は自分が方向音痴であることも理解しているのだが、有り余る決断力が自分に進むべきだと決断させるのだから仕方がない。そう言って作兵衛に殴られたこともある。
 じっとしていろとも怒られるのだが、じっと待つのも実のところ、恐い。体を動かしていた方が目的地に近づけるんじゃないかと、そんな期待もある。大抵はそこまで考えずに走り続けてしまうが。
 要するに、刷り込みのようなものだった。どこともわからない場所に立っていると、作兵衛がやってきて手を差し伸べる。ほら、帰るぞ、と言われるのがくすぐったくて何とも言えずに嬉しくて、だから他の誰かの顔では違和感がある。特別なのだと、特別になりたいのだと、気がついたのはいつだったか。
 しかし雨はなかなか止まず、左門の顔が苦くなる。
 雨が降ると雨漏りだどうとかで、用具委員会はたまに集合がかかる。
 それならば起こさないと、例えば食満委員長その人が迎えにでも来ようものなら途端に作兵衛は泡食って独創的な発想に走るだろう。最終的に、なんで起こさなかったと理不尽に叱られるのは目に見えている。
 非常に名残惜しかったが、仕方がないと左門は暖かな肩を掴んでゆっくりと揺さぶった。
「作兵衛、……さくべー、委員会はいいのか? 雨漏りは?」
 どうにも声が小さくなってしまうのが情けないが、いきなり大声を出す気になれないのは雨の湿気がこの部屋にも蔓延しているからだ。ぬるい空気は音を吸うような気さえする。
 同年の友人たちが聞いたら、左門はそんな小声が出せたのかと驚くような声だった。
「んん……?」
 ぼんやりと目を開けた作兵衛の焦点が、ゆっくりと左門に合わさる。あまもり、と幼い口調で呟いて、作兵衛は億劫そうに掲げた腕を振った。
「こないだ……点検した、から……しばらくいかない」
 ふあ、と欠伸をする様子は、まだ眠そうだ。
「そうか、起こしてすまなかったな」
「や…………あり、がと……」
 今にももう一度眠りそうな作兵衛の顔を覗くように身を屈める。
「もっと寝るのか?」
「んー……」
 ねむい、とどうにか左門の顔を見返した作兵衛の目はもうほとんど閉じかけだった。
「使うか?」
 ぽすぽすと、組んでいた足を真っ直ぐ伸ばして叩くと、茫洋とした目で作兵衛はそれを見た。
 それからまだ柔らかさが残る腿に頭を乗せ、収まりの良いところを探してずりずりと動く。やがてちょうど良いところを見つけたのか、うっすら笑んだまま眠ってしまった。
「…………」
 左門は、口元を押さえて真っ赤になっていた。頬が熱い。
 普段こんなに寄っては来ない分、気恥ずかしいと言うよりはかわいくて、叫びだしてしまいそうだった。だが叫んだら間違いなく作兵衛の拳が飛んでくる、と知っている。
 何よりもこんなに無防備な眠りを妨げたくはなくて、左門は叫ぶ代わりに上体を後ろへと投げ出した。高さが変わることが無ければ違和感で目を覚ますこともないだろう。
 自分の腿へと視線を移せば、何かを抱えるような手の形をした作兵衛が眠っている。
 普段、布団で眠る時よりも穏やかな顔かもしれないという考えは、例えそれが雨音による効果でも、左門は知る由もないが同室二名が朝起きた時にきちんと布団に収まっているかを案じていないからという理由があろうとも、左門の胸を熱くさせた。
 出来ればこんな顔をするのは自分の前だけでいて欲しい、とも思う。同学年の友人たちにならともかく。
 左門も人のことは言えないがまだ丸みを残した頬であるとか、ゆるく閉じられた唇だとか、あちこち跳ねる髪だとかに触れたくなる衝動を堪える。髪の毛を作兵衛に撫でてもらったり梳いてもらったりする分には安心するし気持ちいいと思うのだが、作兵衛自身もそう思うかがわからない。
 起きたら聞いてみようと、作兵衛を絶句させる質問を用意しながら、左門は目を閉じた。
 目を閉じても雨音は室内に落ち続ける。その中で、静かな吐息を確かに聞き分けられた。耳の訓練になる、などと言い訳を自分でつけてはいたが、本当はつられて眠くなってきたからだった。
 こうして午睡を貪るなど、所属する委員会から考えれば極楽のような行為だ。
 作兵衛の顔が見えなくなるのは残念だが、と左門はとろりと溶け出した思考の一部で考える。
 それはまた、次の雨の日に見ればいいことだ。


「ただいー……」
 最後の一文字を言う前に三之助は固まった。ようやっと雨の中ランニングコースの確認を終え、雨の日なりの塹壕掘りの訓練だの一言で始まった泥だらけの時間を終え、何故か用具倉庫と食堂と厠を経由してから部屋にたどり着いたというのに、その中では左門と作兵衛が実に平和そうな顔で寝ている。雨だから多少の予想は付いていたが。
 やれやれ疲れてるのに、と泥まみれの頭巾を外し、三之助も少し離れた場所に寝転がった。
 あ、もう動けない、などとふざけた口調で落としたきり、言葉通り動かなくなる。
 こうして寝入った三人は、夕飯時に食事当番の数馬と藤内が呼びに来るまで起きることなく眠っていた。




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