明日の君へ



 たとえば、富松作兵衛に愛されるというのは、どのような気持ちなのだろうか。

 そう問うと、伊賀崎孫兵の前で三年ろ組のお騒がせ迷子はとにかく仰天したようだった。二人して必死に視線を交わし、挙げ句に孫兵に向き直って、声を揃えて一言。
「やらないぞ!!」
「ああ、いらない」
 あっさりと孫兵が手まで振って否定してみせると、二人はますます不思議そうな顔をして首を傾げた。別に、孫兵自身が愛されたい訳ではなかったし、作兵衛を愛しているという訳でもなかった。
「じゃあ、なんだって言うんだ?」
 孫兵と近い長身のてっぺんを傾げて、次屋三之助。
「急にどうしたんだ?」
 孫兵よりも低い位置のつむじを傾けて、神崎左門。
 話題の中心である作兵衛本人がこの場にいれば人を猫の子のように、と怒鳴りつけただろうが生憎先のやりとりを咎めるような倫理観を持った人間はここにはいなかった。
「純粋な好奇心だよ」
 どこかのんびりと言う孫兵の首に、常のように色鮮やかな蝮が侍ってはいない。ジュンコに聞かれて妬かれたらどうするんだい、と返ってくるのがわかっていたから、左門と三之助もあえて質問はしなかった。
「作兵衛ー? 作兵衛はあ……」
「うーん……?」
 単純な一言で真面目に頭をひねり出す左門と三之助も、大概単純だと孫兵は黙って二人の答えを待った。懐は広いくせに、妙に心が狭くなる時があるのだ。例えば作兵衛についてだとか、お互いについてだとか、そういう時にかっちりと防御したがる。
そういうところは人間らしいと、孫兵は思う。孫兵だって愛するペットたちのことならどこまででも心が狭くなれるから、やはり自分は人間なのだと自覚することが出来るのだ。
「作兵衛は、あったかいぞ!」
 先に答えを出したのは決断を美徳とする左門だった。えへんと胸を張る姿は錯覚だが大きく見える。
「ぼくらのことを考えてくれている時とか、この辺が、」
 左門は大事そうに胸の真ん中を押さえた。
「ふわーっとあったかくなるんだ!」
 快活な笑顔は、孫兵が真似できない左門の持ち物の一つだった。孫兵はそれをこの場に存在しなくても引き出してみせる作兵衛に心の中で拍手を送る。
「なるほど」
「でもやらないぞ」
 そういう左門の目が真剣そのものだったので、孫兵はだからいらない、と言いながらも両手を挙げた。この疑惑を長引かせられてはたまらない。
 ううん、と悩んでいた三之助は、左門の言葉も聞いてから孫兵に向き直った。
「俺は――赦されたような、気分になるよ」
 そう聞いて、どん、と胸を押された錯覚が来る。
 孫兵の様子には気付かずに、左門はなんてことのない顔でそういうこともあるかもなあと頷いている。
「作兵衛がいてくれるから、なんかだいじょぶだって、気分になる」
 左門は安心する、と言われて、三之助は柔らかい! と左門も応える。そのままきゃっきゃとじゃれ合う二人に、ありがとうと孫兵は礼を言った。
「もういいのか?」
 左門を抱えたまま三之助が訊く。ああ、と短く答える孫兵に、目を瞬かせたのは左門だ。
「孫兵大丈夫か? どっか悪い?」
 反対に、孫兵が目を開け閉めすることになった。一つ深呼吸をして、自分のあちこちを確かめてみる。それを、重なった二人がじっと見ている。
「……大丈夫だ、どこも悪くない」
 そう言うとあからさまにほっとした顔をして、じゃあ作兵衛を迎えに行こうと言って教室の方へ歩き出すのだからたまらない。作兵衛は委員会だ、と引き留めて、礼を兼ねて二人を連れて行ってやることにした。
 委員会が終わってさえいれば、保護者は喜ぶことだろう。



 す、と廊下に気配が落ちる。隠してもいない慣れた気配だから、孫兵にはすぐにわかった。
訪問者も、その目的も、だ。
「……孫兵、いるか?」
 遠慮がちな声は、普段のそれとは似つかわしくないものだったが、予想通りのものだ。そして、孫兵にとっては聞き慣れている。どうぞ、と入室を促せば、戸が静かに開いて、その向こうに作兵衛が立っていた。寝間着姿で髷もほどいてしまって、いかにも就寝前といった様子だった。孫兵も、似たような格好をしている。
 用件はわかっていた。作兵衛が夜に孫兵の部屋を訪ねる用など、二つしかない。
一つが迷子の行方を尋ねるもので、もう一つが、これだ。
 作兵衛はするりと部屋に入り込んできて、大事そうに手のひらに載せていたものを孫兵に見せた。
 孫兵は、他意もなく放課後の質問をしたわけではない。本当に知りたかったのだ。
 ――富松作兵衛に愛されたならば、一体どんな気持ちになるものだろうか、と。
「風呂から戻ったら、飛んできたんだ」
 その時点で随分弱ってた、と言う作兵衛の。手のひらにかけられた紙の上に載る姿は、もう涙でにじんで孫兵には見えにくかった。
 一匹の、孫兵から見れば美しくて愛おしくてたまらない蛾が、作兵衛の手のひらの上で死んでいた。もうぴくりとも動かない、作兵衛はそっと紙ごと彼女を孫兵に手渡した。潰してしまわぬように気をつけながら、彼女のために孫兵は泣いた。もう羽ばたくことのない羽を、動くことのない触覚を破損することのないように、静かに捧げ持ちながら。
 孫兵は、毒虫たちを愛していた。
 今目の前にいる動かない彼女も、美しい体に毒の鱗粉を持つ、彼のペットだった。
 級友たちが首をひねる、不思議な繋がりが作兵衛と孫兵の間にはあった。
 何故か、作兵衛のまわりでは孫兵のペットたちが力尽きることが多いのだ。
 作兵衛が何かしている訳では決して無く、孫兵が何をするでも無く、ただ、普通の脱走とは違い、一匹だけでふらりと作兵衛の元にやってきては、そうして力尽きる。生物委員の、世話をしている人間の元でもあるまいし、これは不思議な話だった。孫兵は木下に相談してみたこともあるが、一向に理由はわからないままだ。
 だが虫たちが作兵衛を死に場所に選ぶというのなら、受け入れるのが孫兵の役割だった。作兵衛は、当初こそ困惑していたし自分が悪いのかと悩んでいる様子だったが、そのうち慣れてしまったようだった。孫兵のペットらしき虫を見かけると、静かに見守ってくれるようになった。そうして、孫兵の代わりに彼女たちを看取って、孫兵のところへやってくる。
 最初素手で掴んでいたのを、怒って止めさせたのは孫兵だった。孫兵のペットたちは大半が毒を持っている。噛まれなければ、あるいは食べなければ平気というものたちもいるが、体そのものが毒を帯びている場合も多い。先の蛾などは鱗粉に触れたり吸い込んだりしてはまずい類の子だ。一度怒ってからは学習したのか、懐紙や手拭いに載せて運んできてくれるようになった。
 ぐずり、ぐずりと洟をすすりながら、今までの思い出を語って泣く孫兵を、作兵衛は何も言わずに待っていた。少し別れの光景から目を逸らして、辛抱強く待ってくれている。元来短気な節のある彼だが、大事な時にはきちんと待つことを知っていた。
「……作兵衛……」
「おう」
 涙を拭いもせず声をかけられて、それでも作兵衛は普段通りに返事をした。友人がペットとの今生の別れをしているのを見るのは少し泣きそうになるのだが、ここでつられて泣いてしまっては孫兵がそれこそ夜が明けるまで泣き止まないだろうことは想像がついた。
「すまないが、また付き合ってくれないか……」
「ああ」
 元からそのつもりだった。まだ止まらない涙を流しながら立ち上がる孫兵の後ろについて、作兵衛も部屋を出る。草履をひっかけて向かった先は、三年長屋の裏手だった。幾つかの小さな墓標が並ぶそこに孫兵は膝をつくと、置いてある木切れで穴を掘り始めた。傍らに寝かされた蛾に土がかからないようにしながら、作兵衛もそれを手伝う。大きな穴は必要ない、それがなんとなく寂しく思えて、作兵衛は土を削った。
 紙に載せたまま、蛾が穴の底に入れられる。ゆっくりと土をかぶせていくと、孫兵の口から耐えられない響きでうう、と泣き声が漏れた。
「アオイ……」
 この際、青くないと言うのは野暮だろう。この時初めて作兵衛は、雌であったことを知った。
 小さな墓標に名前を刻んで、立てる。簡素な墓だったが、これ以上が望めるはずもない。孫兵の墓地に横たわる墓標用の木切れを見るたびに、作兵衛はやるせない気分になる。死んでしまうのがわかっていて、自分の前からいなくなってしまうのがわかっていて、孫兵はペットを慈しむのだ。
作兵衛には、出来ないことだった。
 手を合わせる孫兵と共に、手を合わせる。人間の作法がどれほど慰めになるのかはわからないが、真心ぐらいは伝わるといい。
「いつも、すまないな、作兵衛」
「いや、かまわねえよ」
 あいつらはうるせえけど、と照れ隠しにか指先で頬をかく。今頃置いて行かれた作兵衛の同室の二人は、彼の帰りを今か今かと待っていることだろう。夜になれば、流石に左門も三之助も作兵衛なしで出歩かない。自主トレの時はまた別だと言うが、どうせ三人一緒だから変わらない。
「……作兵衛」
 帰り道に、孫兵は訊いてしまった。頭の中を、三之助の言葉が巡っていた。
 『――赦されたような、気分になるよ』
「どうしてみんな僕を死に場所にしてくれないのだろう」
 知りたかったのだ。富松作兵衛に愛される気分を。
 ――富松作兵衛に看取られる、その気持ちを。
 作兵衛は孫兵の顔を、表情が咄嗟に出なかった無表情で、見た。困惑するように眉根が寄って、いつもの皺が出来る。
「やはりみんな、僕のことなど本当は好きじゃないのかな」
 愛情をめいっぱい注いでいても、相手からしてみれば自由を奪う人間でしかないのかもしれない。孫兵の愛が、彼らに取って重荷ではないかと、それは誰にも言えない本音だった。愛しているから、手放せないのに。
「馬鹿なことを言うな」
 ぴしりと空気が引き締まった。作兵衛は足を止めて、真摯な視線で孫兵を見ている。両眼に宿る力は険しかったが、孫兵は恐いとは思わなかった。
「お前があれだけ好いていて、愛されていない訳がない」
 きっぱりと断じる作兵衛を前にしても尚、孫兵は揺らいでいた。普段ならば気にもならない事柄が気になって仕様がない。
「孫兵、お前のところに虫たちが行かないのは、きっとお前が悲しむからだ」 
 ふ、と作兵衛が目元を和らげた。
「お前、虫が死んだら凄く悲しむから、それをあいつらも知ってるから、悲しいお前を最期に見たくなくて、悲しくさせたくなくて、おれんとこに来るんじゃないのか」
 ロマンチストだと囁かれる孫兵よりも、情緒があって物語的で、早々には信じがたい、それはそんな言葉だった。
「だから自信を持て」
 お前以上に毒虫が好きな奴は、そういやしねえよ、そう言って作兵衛はまた歩き出す。孫兵もつられて歩き出した。
 そうかもしれない、そうだったらいいなと思いながら、孫兵は自分の胸中に終ぞ抱いたことのない心境が舞い降りたことを感じていた。作兵衛、と呼びかける。
「作兵衛、僕も、みんなのように」
 ――死ぬ時は看取ってくれないだろうか。
 作兵衛はとんでもないというように目をむいて、それから針でつついたように怒気がしぼみ、はあっとその空気を口から吐き出した。
「……お前が全部の虫たち見送って、これ以上ないってとこまで生きた後だったら、な」
「長生きしないとな」
「本当だよ」
 けらけらと笑って、互いにそうなることなんてないとわかっていても、約束をした。小さな忍者のたまごの、他愛もない、すぐに消えてしまうような約束だ。
 それでもこのあたたかい男に看取られるなら悪くはないと、孫兵は少しだけペットの気持ちを理解した。
 そういう夜の、小さな出来事だった。




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