掌中の花



「のばらー」
それは、ティーダが呼ぶたった一人の人を指したあだ名だった。何人かと夢を共有する彼が、大切に大事に持っている夢の象徴。夢、という単語にちくりと胸に痛みが走る気がしたが、気のせいでやり過ごした。
だが今彼を呼んだのは、快活な雰囲気と髪の色こそ似通っているが有り体に言ってしまえば背丈が大幅に違う、尻尾を持った仲間だった。
「なんだ?」
こだわりなく振り返ったフリオニールに駆け寄ったジタンは、身振り手振りしながら何事か話しかけている。お姫様、だとか花が、という単語は聞こえてくるが、少し後ろを歩いているティーダには何を話しているかまでは把握できない。金の糸をさらさら揺らしながら笑うジタンに釣られたように、フリオニールも苦笑してジタンの額をつついた。両手で大袈裟に額を覆ったジタンは、やはり楽しそうに笑っている。
なんだかなあ、とティーダは思う。自分でも知らないうちに唇が尖っているが、幸いにもペースを合わせて歩いている人間がいないために指摘されずに済んだ。
はっきり言ってしまえば、面白くなかった。
だって自分がのばらのばらと、半分からかうように言った時は大分叱られたのに。そのうち諦めたように許容されたのだが、他の仲間たちは合流した後もそのあだ名で呼ぶことはなかった。そもそもフリオニールは冗談が通じない男ではないが、実直で若干純粋すぎるところがある。素直なのはもちろん彼の美点であるのだが、どうにもそれは彼を困らせることを仲間たちに避けさせた。真っ赤になって怒鳴るフリオニールはかわいいのだけど、あまりやりすぎると反論を放棄して逃げてしまうのだ。くるりと肩を怒らせて背中を向けてしまう、その背中に関してはティーダはあまり好きではなかった。普段の、走り出す背中などはタックルしたくなるレベルで好ましいというのに。
あだ名を、呼んだのは。
短く呼びたいだけならフリオでいい、咄嗟の時はそちらの方が口をついて出る。
わざわざ相手が嫌がるかも知れないというリスクを負ってまで、彼の大事な物で称したのは。
フリオニールの、夢を、自分が意識していたかったからに他ならない。それが例え自分がいない世界で叶えられるべき夢であっても、それが夢である限り。そこに、自分が関わっていられるのではないかと。同じ夢を見ると言った仲間たちと同じように、あるいは別の形で、ティーダという要素が彼の中に残るのではないかと。
明確にそんなことを考えていたわけではないが、ある程度そのような考えが頭にあったのだ、と思う。未だに思い出せない、よくわからない、ティーダが帰るべき世界のことを、それこそ全く思い出せていなかったあの時でさえも。
少し沈んだ赤いバラ、それを弄ぶフリオニールにふざけて飛びついた時に。
――やはり、気に入らない。
心が狭い気がしないでもなかったが、うじうじと悩んでいるのは自分らしくない。
話が終わったようで少し歩調を緩めて歩くジタンの、ゆありゆありと揺れる尻尾をぱしりと捕まえた。
「う、わっ、……なに?」
案外丈夫な尻尾であることは知っている。ある程度自在に動き、物に巻き付けて持ち主の体を持ち上げることすらできる。実際それを使って上手いこと二人で連携したこともある。ジタン自体に何ら嫌な印象はない。ないのだが。
「なんでもない、ッス」
「いやいやなんでもなくて尻尾掴んじゃ駄目だろ」
元々ぎゅっと掴んでいたわけでもない尻尾が、ティーダの掌を撫でてするりと逃げる。フリオニールがセシルと何か相談しだしたのを確認してから、ティーダはジタンに顔を寄せた。そのあからさまな内緒話をしよう、という誘いにジタンは首こそ傾げたが、面白そうだとそのまま乗る。そんな二人をちらりと横目で見たクラウドが追い越していく。
「……なんでのばらって呼んだんスか」
「はあ?」
少しは頭の中でどういう風に言おうかこねくり回したりはしたのだが、結局ティーダの口から出たのは単刀直入なものだった。結局それが気になっているから、他の言葉など浮かばないのだ。
一方ジタンの方は、実に細かいことを聞かれて面食らっていた。ティーダがどんな答えを求めているのかすぐにはわからない。
「ノリ? なんとなく?」
至極適当に答えながら、眉根を寄せたティーダの顔を見る。笑顔でない彼の顔を見るのは珍しく、ジタンは距離が近いのをいいことに歩きながら観察を試みた。気が付けば少々一行の歩みから遅れてしまっているが、許容範囲だろう。幸いにもここは秩序の聖域と近い性質の領域のようで、見晴らしはかなりいい。
ティーダはジタンから見る限り、機嫌が悪そうに見えた。機嫌が悪いというよりも拗ねた子供のような、とそこまで考えが至って、ジタンは顔に出さずに納得した。
「一回呼んでみたかったんだよ、フリオニールってああやって呼ばれるとちょっと嬉しそうに振り向くなーって思って」
「へ」
ジタンはティーダから少し体を離して半歩前に出る。頭の後ろで手を組んで、一瞬歩みが止まってしまったティーダが慌てて歩調を早めるのを眺める。その顔は不機嫌から、驚きと喜びの色が滲み出している。わかりやすいなあと好ましい感情と共にジタンは思う。
「でももうオレは言わないよ」
ティーダが追いつくか追いつかないか、その間際に言い放つ。
「……なんで」
なんでっておまえ、と笑い出したくなるのをジタンは我慢した。ティーダが呼ばれたくないんだろう、と言うのは簡単だが、それを指摘してしまっては気の毒だ。それに理由は本当にもう一つある。
「オレが呼んでも嬉しそうじゃなかったから」
「……わかるように言ってくれよ」
今度こそくっきりと拗ね顔で顔を曇らせたティーダを、ジタンはにやにやと見やる。ジタンとしても、この太陽を曇らせたままにしておくのは忍びないのだ。
「のばらって呼んだから嬉しそうなのかと思ってたけど、違った。ティーダが呼ぶとフリオニールは少し嬉しそうに振り向くんだな」
「……嘘?」
「嘘言ってどうすんの」
ティーダの、その事実に気付いていなかっただろうティーダの、その頬に血が上っていく。
それはそうだろう。本人が呼びかければ常にフリオニールはそんな感じで振り返ってくれるのだから、逆にティーダは周りが呼んだ時の彼の反応を知らないだろう。決して悪いわけではない、だが人によっては少し緊張した顔つきになったり、極力平静に見えるようにと振り返ったりする。ジタンがバッツと一緒に突撃すると、呆れたような顔になる時もある。ティーダが呼ぶと、フリオニールは少しほっとした顔で振り返る。安堵であり、嬉しそうであり、落ち着いた顔で、どうしたティーダ、と呼び返す。
ジタンはそれを羨ましいとは思わないが、気が付いていないのはもったいないなと思う。
時間は限られていると、誰もが悟っている。ならばその中で、陽光満ちる花畑がたくさんある世界を望むのと同じように、仲間の安らぎと幸せをジタンは願っていた。
「……のばら」
頬に火照りを残したまま、ティーダが小さく呟いた。
それを聞きつけたのかどうかはわからないが、大分離されてしまったフリオニールが振り返る。
ほら見ろ、とジタンは思った。
「――ティーダ、ジタン! 置いていくぞ!」
「待てっての!」
フリオニールが二人を呼ぶ。ティーダは血を下げるように軽く屈伸してから、思い切りよく駆け出した。向かう彼の真っ直ぐな目は、最早フリオニールの姿しか入っていないに違いない。
「せーしゅんだなあ」
ティーダよりも年下であるはずのジタンはいやに大人びた口調で呟いて、その後を追った。走る必要はない、ティーダはすでにフリオニールに追いついてはしゃいでいるし、その視界の中には仲間たち全員の姿が収められている。
「やっぱ世界を救うってだけじゃね」
大きすぎて全体しか見えない目標もいいが、時に人は小さな自分だけの目的を見いだす。
それを見つけようと足掻いた仲間もいる。そのために戦うと言い切れる仲間がいる。
さしずめ、ジタンの目的は仲間の無事、になるのだろう。
これでレディが多ければな、とジタンは舌を出して、暗い空の下を仲間と同じ歩調で歩き続けるのだった。




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