蜘蛛の糸は切れない



「もう寝た?」
「起きてる」
 問いへの返事は苛立ち混じりで、三反田数馬ははは、と力無く笑った。彼から目を離せば空を見上げるしかないのだが、そこに広がるのは切り取られた一部分だ。
少しばかり曇ってきているのが心配と言えば心配だった。そこまで不運が重ならないとは思いたい。
「だよねー……」
 ゆっくりと眠れる、はずもない。
 数馬にとっては、否、保健委員にとっては不本意ながらお馴染みともいえる落とし穴の底に、一人で落ちているわけではなかった。どうにかこうにか二人、互い違いに壁に寄りかかれば足を伸ばせる程度の穴の底に数馬と共に落ちたのは富松作兵衛だ。
 珍しいことではあった。そもそも用具委員会に所属している作兵衛にとって穴とは埋めるものであり、落ちるものではない。大概例え二人で行動していたところで、落とし穴に落ちるのは数馬だけというのがお約束だ。
 今回は、作兵衛もまた不運だったとしか言いようがない。
 二人とも委員会活動が無く、また会計や体育、作法に生物は活動があったためなんだかんだで連んでいる六人が揃わなかった。普通に二人で宿題を済ませ、夕食は揃って取ろうかと委員会終了時間がはっきりしている作法委員会にまず浦風藤内を迎えに行った、までは良かった。
途中でふと作兵衛が昨日行った旧用具倉庫の施錠をきちんとしたかどうか不安になり、それに付き合った数馬はその近くにあった厠に落とし紙が補充されているかどうかが気になった。結果作兵衛が忘れていたはずはなく、落とし紙も普段からの保健委員の活動の成果か残っていた。滅多に使われない場所らしく若干湿ってはいたが。
 さて安心したと厠から離れたその二歩目に、数馬の体が沈んだ。見慣れてしまった光景にも作兵衛の体は素早く動き、とっさに腕を伸ばした。
が、その体重がかかった瞬間作兵衛の足下も諸共に陥没し、見事なまでに二人して落とし穴の底にご招待と相成ってしまった。
 落ちた時間が悪く、ちょうど夕日が美しい時間だったように記憶している。だがどうにかして脱出しようとしているとあっという間に日は落ち、辺りは闇の世界になってしまった。
忍者のゴールデンタイムではあるが、穴の底にいたのでは何の救いにもならない。
こうなったら空腹をごまかすためにも寝てしまって救助を待とう、という後ろ向きな結論に至って目を閉じたのが少し前の話だ。
 だが、どうにも数馬は落ち着かなかった。眉を寄せて壁にもたれ掛かって目を閉じる作兵衛には散々謝った後ではあったが、背後の壁に頭を預ければ土くれがぼろぼろとこぼれてくる。
忍術学園一忍者しているという先輩ならこの状況でも眠れるのだろうが、生憎保健委員会では薬棚をひっくり返して徹夜することはあっても水の中や梁の上で寝ろとは言われたことがない。作兵衛とて同じだろう。
起きていることが寝息や体の緊張でわかってしまう相手と狭い空間にいて、ただ黙って過ごせるほど数馬の神経は太くなかった。
どちらかといえば、この閉塞間と沈黙に耐えかねた。
「また綾部先輩かなあ」
 学園一の穴掘り名人、つまりは保健と用具共通の最大の敵の名前を挙げてはみたが、作兵衛は腕を組んだまま首を横に振った。跳ねた前髪の下で、目が開く。
「いや、先日綾部先輩は食満先輩の監督の元で大体の穴を埋め直しさせられたから、あれから掘ってなければ増えてねぇはずだ。そもそも目印も無かったしよ」
「なるほど」
 それに、と作兵衛は落とし穴の側面を指先でなぞった。暗闇に慣れた目には、妙にその指や指先に付いた土が白く見える。
「これはそんなに新しい落とし穴じゃねぇ、昔の奴が見つからずに残ってるって可能性もあるが……掘り方の癖が綾部先輩のものじゃない」
「え、わかるのか?」
 驚きに数馬が目を見開くと、ふんと高らかな鼻息が聞こえてくる。
「おれがどんだけあの人の穴を埋めてると思ってる」
「本当お疲れさま……」
 彼ら用具委員会の尽力によって落ちる回数が減っていると思うと、心から感謝せずにはいられない。ここから出られて次の食事の時には作兵衛におかずを一品進呈しようと数馬は心で決めた。
 さて何がいいだろうか、数馬や藤内はきんぴらや和え物といった副菜も好むのだが、ろ組の三人は肉や魚の主菜がことのほか好きだ。そうでなければハードな委員会や迷子捜しに使う体力が保たないのだろう、漬け物や小鉢の代わりにもう一品肉系のものがついた定食が出ないかと願っては、学食のおばちゃんが決してそのような偏りを許さないだろうという事実に躓いて諦めている。
しかしかといって、例えば干物を丸々渡してしまっては数馬のおかずが少なくなる。当然作兵衛の余分を狙って二人が騒ぐのだろうし、藤内が心配して分けてくれる可能性もある。伊賀崎孫兵ですらジュンコのご飯をありがたくなくとも分けてくれるかもしれない。
何をあげるのが一番いいだろう、と考えたが、その考えはこの状況にふさわしくなかった。
 ぐぅ、と小さく数馬の腹が鳴る。この至近距離で、静まり返った周囲の中で、聞こえないはずがなかった。
「腹減ったな……」
 しかし作兵衛はそれを揶揄するでもなく、自分もぽつりと呟く。
「そうだね……」
 内心恥ずかしかったが、聞かなかったことにしてくれるらしい作兵衛の気遣いに甘えておく。
委員会でも学級でも手のかかる者に囲まれている作兵衛は、この年にしては面倒見がいい。
「……あいつら、今日は迷子になってねぇだろうな」
 虚空を睨みつけながら作兵衛は苦虫を噛み潰した顔をしている。
その言葉が指す意味など、もはや三年のみならず学園中が理解している。
「ど、どうだろう」
「藤内が巧いこと引き留めてくれていることを願うぜ……」
作兵衛ははぁっと息を吐く。
 確かに今頃、三年長屋はちょっとした騒ぎになっているはずだった。
いつもならいなくなる二人組ではなく、探す方の作兵衛と長屋で怪我人用に待機している数馬がいないのだ。
おそらく、多分、流石に、何人かには探してもらえているはずだが。
 その中で藤内が言わずとしれた方向音痴二人組を押さえておけるかどうかが、作兵衛の一番の関心事と言ってもいいだろう。流石に穴に落ちて数刻過ごした後で迷子捜索に野山をかけずり回りたくはない。
 だけどそれはどうだろうね、と数馬は口に出さずに思う。
 多分、藤内には悪いが、彼一人では二人を押さえておくことはできない。
孫兵はどちらかというと普段自分のペットを捜索している分地形には聡く、彼がこちらを探してくれているだろうことは推測がつく。
となれば、藤内や他のろ組の生徒がいくら彼らが歩き回った方が迷惑になるのだと言い聞かせてもそれだけで留まりはしないだろう。
 そして、これはずっと三人を見てきた数馬の推測なのだが。

「なんと! こんな所で穴に落ちているとはな!」
 素っ頓狂な声が響き、大口を開けた神崎左門の顔が穴の上から覗いた。

「駄目じゃないか作兵衛に数馬、迷子になるならいつもみたいにみんなと一緒に迷子にならないと」
 自覚が全く無い言葉を吐いた次屋三之助も、少し汚れた顔を穴の中へと晒した。

 作兵衛の目が、饅頭よりも丸く大きく見開かれる。

 数馬は、知っている。
 誰よりも作兵衛が左門と三之助を見つけられることを。
 そしておそらく、作兵衛のことを誰よりも早く見つけられるのは、左門と三之助であろうことも。
 作兵衛はまだ知らないのだ。
 彼がいなくなったと聞いて左門と三之助がおとなしくしているはずが万に一つもないということも、そして肝心なときには、道をどれだけ間違えたとしてもたどり着いてくれるだろうことを、作兵衛はまだ知らない。
「おっ、お前……ら……」
 驚愕のあまり声もろくに出ないらしい作兵衛の言葉を待たず、上の二人が話し出す。
「しかし珍しいな! 数馬だけじゃなく作兵衛まで!」
「縄も包帯もなかったのかー」
 普段なら持っていることが多い道具だが、夕飯を食べに行くだけのつもりだった二人が持ち歩いていたはずもない。
「どうする? 引っ張り上げるには縄がいるぞ」
「よし! 倉庫まで取りに」
「待てええええええええ!!」
 地上の不穏な相談に、喉の奥で張り付いていた声を作兵衛はようやく張り上げた。
作兵衛は確信していたのだ、この場で野放しにしてしまっては夜が明けるまで左門と三之助の顔を見ることは決してないと。
「いっ……いいから、お前らそこに……」
「ん? だって早く出たいだろ?」
「安心しろ、すぐに戻ってくるぞ!」
「戻ってこれねぇから言ってるんだよ!」
 焦る作兵衛と同時に、数馬も少なからず焦っていた。地下からでは二人をこの場に止めておくのは難しい。無意識に同室の友人に脳内で呼びかけたものだから、最初数馬は幻聴かと思った。
「お前ら! だから部屋にいろって、……っ!? 穴!?」
 穴、と見て即座に自分を連想されるのも悲しいものがあるが、ともかく迷子二人を追ってきたらしい藤内がこちらに気が付いてくれたのは幸運だった。
これ以上ないほど幸福なのだから、これは恐らく作兵衛の運なのだろう。
「数馬! 作兵衛! いるのか!?」
「そいつらを止めてくれ!」
「頼むよ藤内!」
 縁まで駆け寄る藤内に無事を告げるより先に、数馬と作兵衛は同時に叫んだ。
はっと顔を上げた藤内の視界には、今にも走りだそうとする左門と三之助が映る。
「待てー!」
 そもそも迷子を捜してこんな学園のはずれまで来たのだ、ここで逃してしまってはたまらない。
藤内は二年前に散々予習したよりも素早く、二人の襟首をひっつかんだ。作兵衛ほど手慣れてはいないので、二人の喉からぐぇっと苦しそうな音がする。
「何をする!」
「そうだぞ、縄を取ってこないと」
「縄なら俺が持ってる! だから取りに行かなくていいんだ!」
 およそ忍者らしくない大きな声で藤内が叫ぶと、左門も三之助もぴたりと動きを止めて藤内を見る。
「なんだ、早く言ってよ」
「早く上げてやらなきゃかわいそうじゃないか」
 なんとも言えない言いぐさに、藤内は髪をかきむしりたくなる衝動に駆られたが辛うじて耐えた。もちろん今はそんなことをしている場合ではない。
しかし、なんというか、お前らにだけは言われたくない、という言葉がこの世には膨大に存在するのである。
「よし……上げるぞ……」
 捜索に対する肉体の疲労に加え、精神の疲労までが追加されて藤内は萎れきった声を出す。てきぱきと縄を固定して、おう!と返答する二人の声は元気そのものであるのだから、疲れはまた増えていく。
そんな地上の様子をやきもきしながら眺めるだけの数馬は、藤内にもおかずを分けてあげようと心に決めていた。だがそうしてしまうと数馬のおかずがなくなってしまうことを、彼自身はまだ気が付いていない。
 下がってきた命綱を、作兵衛が数回下から引っ張って固定されているのを確かめた。
「数馬、先に上がれよ」
「え、いいよ、先に行って」
「や、」
「……ほら、万が一不運なことが起きたら悪いし……それに」
 そうだな、と迂闊に肯定することもできず、作兵衛は言葉を切った数馬を見た。
「作兵衛は力持ちだもん、僕も軽く引き上げてくれるだろ?」
「……腹減ってっから微妙だぞ!」
「期待してるよー」
 数馬はひらひらと手を振って、上げてくれと上に向かって叫ぶ作兵衛を見送った。上がる時は上の者の力だけではなく、上って行く者の技術も必要になる。壁をとん、とん、と蹴りながら、作兵衛は少しずつ穴から出ていく。
 やはりこちらの方が、不本意ながらも落ち着くと数馬は思う。これまた不本意ながら穴に落ちるのも慣れてきた、最近では怪我もあまりしない。そして脱出方法も実地で学べるのだから、やっぱり自分たちは不運であっても不幸ではないのだ。そう思うことに、保健委員会ではしている。
 そして先に穴から出て、しばらくぶりに穴から出て手足を伸ばした作兵衛は迷い無く縄に再び手をかけた。
「数馬ー!」
 今度は作兵衛も揃っての、大合唱だ。その最高尾にいつの間にか混ざっていた孫兵を見つけて、数馬は思わず笑ってしまった。
声を聞いて気が付いた四人は、一様に振り返って驚いている。その首にジュンコの姿がないところを見るともう寝ているのだろうか。まさか逃げているわけではないだろうと願いたい。
「いいよー!」
 数馬も縄を握り、呼吸を合わせて地を蹴った。
 しばらく座り込んでいた空間は見る見るうちに遠ざかり、数馬も無事に地上に到達する。
「ありがとー……」
「すまねぇなお前ら、助かった」
 ふう、と縮こまった体の節々を伸ばしながら数馬は皆に礼を言う。作兵衛も頭を下げると、左門は三之助と、藤内は孫兵と目を見交わした。
 そして四人揃って二人を見て、一言。
「どういたしまして!」
 その顔がどうにも晴れ晴れとしていて、作兵衛と数馬はこちらも揃って吹き出した。
なんで笑うんだ、といってじゃれついてくる仲間たちにごめんごめん、と笑って返す。
「お説教は後にしとくから」
「あ、やっぱり……?」
 比較的冷静な孫兵は二人に告げる。情けなく肩を落とした数馬を、ぽんぽんと藤内は叩いた。
「先輩方にも後で謝りに行かないとな!」
 左門が元気に宣言した内容に、作兵衛は目を剥いた。
「先輩方にも言ったのか!?」
「ああ、作兵衛が部屋にいないし、数馬もいないというから学園中を探し回ったからな! 当然、途中で先輩方に何か知らないかと聞いた」
 無駄に胸を張る左門に、作兵衛の顔がさあっと青くなる。左門が学園中といったら、それは本当に学園中なのだ。
明日の朝までには満遍なく、『迷子に捜索される三年生』の噂が広まり尽くすことだろう。
「と、藤内……」
「……悪い数馬、作兵衛、止めきれなかった」
「すまない」
 数馬の言葉に苦々しく答える藤内と孫兵は悪くない、悪くもないし、左門が悪いとも言えない。そもそも穴に落ちたのが悪いのだから、探そうと尽力していた左門を叱るのはおかしい。どうにもならず、数馬はひとまず落ち込むのをやめた。
忍術学園の話題の種は多い、七十五日待たずとも噂は消えるだろう。消えるはずだ。
 作兵衛はしばし呆然としていたが、三之助の呟きに我に返る。
「腹減ったな」
「うむ! 食堂へゴーだな!」
「行かせるかよ!」
 左門とも食堂とも別の方向に走っていこうとする三之助を作兵衛は捕まえる。
左門の走り出した方向には幸い孫兵がいたため、捕獲は成功する。
「藤内に数馬!先導!」
 言われる前から二人はさっさと歩きだしている。今夜ばかりは二度と迷子にさせるつもりはなかった。
「腹減ったから早く行きたいんだけど」
「走ったら余計腹が減るだろーが」
「それもそうだな!」
 ろ組三人の会話を、半ば感心した顔で孫兵が聞きながら歩き出す。当然、その手は左門の腕を掴んでいた。
 わらわらと固まって食堂を目指す三年生六人組を、遠い木の上からそれぞれの委員長たちが眺めている。当然、三年生に気づかれるようなヘマはしない。
 見つかった二人と、見つけた二人と、探し続けた二人が揃っていることを確認して、各々笑みを浮かべて木から退散する。言いたいことは酒宴まで胸の内だ。
 誰もいなくなった木立の下から、どこかで見たことがある朱色の蛇が這いだして、別の茂みへと移動していく。
 ゆっくりと食事をして落ち着いた三年生たちが、また慌てて飛び出していくのは、そう遠いことではなかった。


End.



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